を満たしたものと云ふかも知れません。時代の風潮といふものは恐ろしいもので、合理的とは簡便第一であり、趣味的とは伝統を忘れて感覚の刺戟を追ふことだつたのであります。
[#7字下げ]七[#「七」は中見出し]
こゝで、私は、文化の水準をはかる尺度について一言したいと思ひます。前に述べた、能率、健康、品位は、国民生活そのものの、正しい体制を整へる目標でありましたが、今度は、ひろく「文化」の価値標準を、どこに目安をおいて測つたらよいかといふ問題であります。これは、人間一人々々についても、あらゆる物件のひとつひとつについても同様のことが云へると思ひます。それは、ごく大ざつぱな、常識的な考へ方でありますが、先づ、人なり物なりの道徳性といふことが一つ、国体に憚るところはないか、人道に適つてゐるか、邪《よこしま》なところはないか、神を畏れぬ不逞なところはないか、仮面をかぶつてはゐないか、つまり、道徳的にみてどうであらうかといふ標準であります。それから、その次は、科学性とでも云ひますか、知的にみてどうかといふ標準であります。理窟に適つてゐるかどうか、物の考へ方が正確であるかどうか、頭が一方に偏してゐないかどうか、心深いところまで見きはめられてゐるかどうか、これが一つ。第三には、美しいか醜いか、言ひ換へれば芸術性の高い低いであります。美しさにもいろいろありますが、ほんたうに美しいものは、自然を除いては稀であります。人情の美しさは道徳的とも云へますが、道徳を超え、道徳では律せられぬ美しさが、人間の精神のすがたと働きのなかには往々にしてあるのであります。これを発見する眼はむろん必要であります。芸術的な眼とでも云ひませうか。物の美しさも、その人の眼の高さによつていろいろに映り、それほど美しくないものを非常に美しいと思ふのは幼稚な感覚をもつてゐるといふことになります。反対に、人の気のつかないやうなもののうちに、すぐれた美の要素を認めるのは、その人の心の窓が「美」に向つて大きく開かれてゐるからです。しかし、およそ感覚、感情を通じてうつたへる美しさは、特別のものを除いて、万人の胸にひゞくものであり、その美しさの程度は、「文化」の一つの標準と考へるべきであります。
道徳性、科学性、芸術性、この三つの性格は、文化を形づくる主な内容であることは、人間の活動が、知、情、意の三つの働きに帰することから
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