みてもうなづかれると思ひます。更に、人間の理想として永久に追ひ求める真、善、美は、また、この三つの「文化」の面に符合するわけであります。
たゞ、この三つの要素は、飽くまでも、不即不離の関係になければなりません。このうちの一つだけが完全に備はつてゐるといふやうなことは、事実あり得ないばかりでなく、またさういふ風に見えることは、「文化」の歪みであり、不健全な状態であります。
例へて云へば、道徳的にみて正しい人物と仮りに折紙をつけられるやうな人物でも、往々、物の考へ方が偏狭で、味もそつけもなく、判断が軽率で、常識さへも疑はれるといふやうな半面をもつてゐたりするのは、少くとも、「文化」といふ点からみれば、明らかに不具者と云はなければなりません。また、芸術家乃至は芸術に親しむ人でありながら、道徳的には無軌道であつたり、学問を軽蔑し、殊に科学を敵視しすぎたりするのは、これまた褒めたことではありません。
品物について考へてみても、物の利用価値といふことはもちろん第一に計算に入れなければなりませんが、あまり実用本位といふことにのみ気を取られ、文化価値を全く閑却したものは、いはゆる殺風景となるのであります。殺風景も忍ぶべき時には忍ぶべきでありませう。しかし、それが常態となることは、結局、人間の退化であり、堕落であります。それなら、品物の文化価値とはどういふ形で現れるかと云へば、さつき云つたとほり、おほむね道徳性、科学性、芸術性の三つの形で現れます。品物の道徳性とはちよつと説明が困難ですが、一番わかりいいのは、つまり、まやかしものでないかといふこと、俗に云ふ、「インチキ性」がないかどうかといふことです。「ちやちな」といふ言葉がありますが、これは一方道徳的な意味もあると同時に、寧ろ、科学性の低い、技術的に幼稚、或は粗雑なものを指すので、やはり、利用価値から云つても問題にならぬことを示してゐます。更に、「ちやちな」ものは、美しいといふ点から落第点がつけられませう。物の美しさは、それが一つの用途をもつものであれば、きつと、その精巧さと比例し、使ひよく丈夫で永持ちのするものなら、形と云ひ艶と云ひ、申分のない美しさを発揮してゐるに違ひありません。才能のある職人の心がそこに籠つてゐるからであります。そして、さういふ品物は、どことなく気品があり、重みがあり、凜然としたところがあります。そこに、
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