覚」の幼稚、貧困、乃至は磨滅でありませう。
さて、この「文化感覚」でありますが、これは不思議なことに、現代日本に於ては、教育の程度や、社会的地位の高下とは聊かも関係がないのであります。山間の陋屋に住む無学な一農村青年が、堂々たる名士の講演を聴いて、趣旨はよくわかり、少しも異存はないが、どうもあの調子や言葉使ひが妙に気になると、首をひねつてゐるのです。聴いてゐる方で恥しくなるとも云ふのです。なぜかと問へば、正確な返答はできません。しかし、あゝいふことを云ふなら、あゝでなく云つてほしいといふ気持です。これはもう立派な「文化感覚」です。つまり、講演者の「文化的教養」を正確に評価する勘がそこにみられます。多分、紋切型の演説口調と、言葉の濫用による示威的な表現から一種の「卑俗さ」を嗅ぎつけ、これは意外だと思つたのでせう。
道徳的な低さは、道徳的でない、或は道徳がないこととは少し違ひます。これも詳しく話さなければなりませんが、問題が少しわきへ外れますから、こゝでは触れないことにして、更に、道徳的な低さと並んで、「卑俗さ」の原因となるものに、芸術的な低さがあります。これも厳密に云へば、芸術的でない、或は、芸術がない、といふこととは違ふので、芸術の要素はあるのだけれども、それが程度として低いことを指すのであります。つまり、美を目指して、美の最下部、即ち、マイナスの領分に安住してゐることです。わかり易い例は、無用の装飾がその一つであります。更に、醜い細工がさうです。世間はこれを案外歓迎するものと見えて、商品の大多数はこの手のものと云つて差支へありません。少し凝つた住宅や、旅館、料理店などにこの例がなかなか多く、婦人の衣裳は大部分さうだと云つてもいゝくらゐです。芸術家と称せられる専門家の作品にさへ、たまたま、売らん哉の似而非芸術品があることももちろんであります。
これは、「美意識」の低さによる「卑俗な」風俗の横行でありますが、同様に、「科学的」幼稚さから生れる「卑俗な」習慣といふものも考へられます。迷信の如きがそれであります。
しかし、かういふ風に、道徳、芸術、科学と三つの角度から「卑俗さ」の本質をしらべてみましたが、これは強ひて分ける必要もなく、また、それは可なり無理なことでもあるに拘らず、一応解りやすいやうに、分析を試みたに過ぎません。それゆゑ、これだけではまだ、「卑俗さ」
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