もわかります。
「卑俗さ」はまた、自ら高きを以て任じる指導的言論のなかに、却つて誇らかな調子でそれが示されてゐることがあります。そこには、共通の、思想の貧しさが認められますが、その傾向の主な原因は、真の理想を夢みる能力を欠いた、性急な打算と手軽な効果とをねらふ功利主義、便宜主義であります。
 従つて、本来、尊厳なるべき道徳の問題に於てすら、その道徳を標榜し、鼓吹する精神のうちに唾棄すべき「卑俗さ」を含むといふ大きな矛盾が、どうかすると平然と通用してゐることがあります。この「卑俗さ」は単に功利主義、便宜主義から生れるばかりでなく、多くは、見えすいた誇張、若しくは、われ知らず陥る自己欺瞞を伴ひ、低調な道徳観の、身のほどを弁へぬ思ひあがりを特色とするものです。
 なるほど、一応、「道徳」を尊重するといふ身構へに於て、それは「道徳的」と云つて云へないことはありますまいが、しかし、そこに大きな問題があるのでありまして、例へば犠牲的行為といふやうなものでも、自らさう信じてゐるにせよ、若し仮りに、他の一面に於て、その行為が、何等かの報酬をひそかに期待したことが明らかであつたとしたら、これを犠牲的行為と名づけることすら憚りありとするのが「道徳」であり、逆に、これを強ひて犠牲的行為とみなし、少くとも、敢て「美談」として吹聴するやうな精神は、「不道徳」とは云へないまでも、頗る低い道徳意識だとしなければなりますまい。
 かゝる道徳観、道徳意識によつて導かれたあらゆる行為、あらゆる事業は、常に、その表現の空疎で月並な感激調と共に、最も「卑俗な」臭気をあたりに撒きちらします。ところが、かういふ臭気は世間にひろがり易く、多くの人々はそれに馴らされて、しまひにはそれを「道徳の臭ひ」だと思ひ込むやうになります。営利主義が「道徳」と結ぶのは、この虚に乗ずるよりほかはありません。
 政治も亦、国民大衆を導く便法として、屡々この種の「卑俗さ」を利用したといふ風にも見えますが、実は、政治そのものの陥つた「卑俗さ」が、期せずして「俗衆」のみを対象とせざるを得なかつたのが従来の傾向であります。
 思ふに、この「卑俗さ」は、単に道徳的な面だけでなく、一般に、綜合的な意味で、例外なく、「文化感覚」の鈍さ、乏しさを示してゐるのでありまして、すべての物象を通じて「卑俗さ」の主たる原因となるものは、恐らく、この「文化感
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