るの矜りを、口の先や、単なる身構へだけでなく、心の底の底から持ち得たかどうかといふことにかかつてゐると云へませう。
 それからまた、人間の品位は、さつきも云つたとほり、素朴な精神の純粋な姿のなかにもありますが、同時に、ほんたうに洗煉された作法、熟達した技術を通じても示されるのであります。
 茶道の形式がこれを証明し、また、巨匠名人と云はれる人々の風格を見てもわかると思ひますが、それよりも、われわれの身近なごく平凡な人物が、それでも自分のやゝ得意とする仕事に没頭してゐる時の、あの緊張した、しかも落ついた満足げなすがたのうちに、どうかすると、その人の平生には見られない、一種気品の閃きとも云ふべきものを発見することがあります。危なげのない、調和のとれた、澄みきつた、美しい姿なのであります。
 私はまた、都会の、技巧をこらし、見栄をはつた生活と、さういふ生活をしてゐる人々よりも、農村あたりの、代々の仕来りを守つた、がつちりと地についた、目立たない生活と、さういふ生活を営む人々の方に、寧ろより多く「品位」といふやうなものを感じることがあります。何れにしても「品位」は附焼刃でないことだけはたしかであります。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

 さて、こゝで私は、「品位」を最も傷つける「卑俗さ」といふことについて一言しなければならなくなりました。
「卑俗さ」といふことは、読んで字の如く、「卑しく俗つぽい」ことで、もちろん、「高貴な」精神と相容れないものです。しかし、「高貴な」と云つても、それぞれ程度があり、その現れ方もいろいろでありますから、一般の水準を示すことは容易でありません。とにかく、人間として、どんな場合でも保たなければならぬ「品位」といふものがあると、私は信じるのですが、その「品位」を傷つけ、心あるものの顰蹙を買ふやうな調子が、若し、その人間の無意識の言動のうちに認められ、しかも当人は却つて、さういふ調子に満足を感じてゐるかの如くみえたならば、それは、きつと、何時の間にか「卑俗な」趣味に捉はれ、または、「卑俗な」精神に蝕まれてゐる証拠であります。
「卑俗さ」は必ずしも、「粗野」と一致はしません。従つて、一見巧緻を極めた技術的表現のなかに、往々、「卑俗さ」の限りを尽したといふやうなものがみられるのです。都会の風俗や、芸術の名を冠した様々の作品にその例が多いことで
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