の本体をつかむわけには行きません。
「卑俗さ」といふことは、言葉どほり、卑しむべきものであるに拘らず、それが世間普通のことになつてゐるといふ状態から、そもそも研究してかゝらなければなりますまい。
「世俗」とか「俗世間」とかいふ言葉があります。世間即ち「俗」といふことになりますが、これは、もともと「出家」したものに対して世間の普通の人を「俗人」と云つたのを、転じて「凡庸」の意に用ひ、更に、卑しく品のないことを指すに至つたのです。殊に、「卑俗」、「俗つぽさ」となると、これはもう、「俗の俗なるもの」を指すことになります。それなら、その世間の「俗つぽさ」は何処から来るかと云へば、私に云はせると、やはり、久しきに亘る理想なき政治と、功利的な教育から来るのだと思ひます。いちいち例を挙げることを控へますが、実際、今日、屡々公の名に於てなされる事業や、その宣伝までが、「俗つぽい」なにものかを感じさせることを、私はひそかに憂へてゐるものです。日本の姿は決してさういふものであつてはならないと思ふからです。
「卑俗さ」の危険は、さういふわけで、世間一般が、それを普通当り前のこととして見過してゐるところにあります。一方で「卑俗」ならざるものを、「高尚」なりとするところから、それはもう、特別な人間の、或は特別な社会の、一種近づき難い領域であつて、さういふものは、当節、世間相手の仕事になんら役に立たぬといふ風な常識が通用してゐるかに見えます。従つて、「高尚」とか「上品」とかいふことは、聊か実質を遠ざかつた装飾のやうにも考へられ、言葉の悪い意味に於ける貴族趣味を代表するやうな、一種取澄した滑稽な表情をすら連想させるものとなつたのです。
「雅俗」といふ熟語なども、「雅《みや》び」に対して「俗」と云へば、それだけでは、別に「卑しさ」をまで意味しないのではないかと思ひます。なぜなら、「雅び」そのものが、繊弱華美を誇る限り、決して尊重されるべきものではないからです。しかし、「高雅」に対する「卑俗」といふことになれば、そこには、はつきりした価値の対立がみられます。なぜなら、「雄渾高雅」の趣きは、日本の国風を象徴する理想のすがたであると、私は信じるからであります。
そこで、再び、「俗つぽさ」の問題に帰りますが、この世間に通用してゐる「卑俗さ」の正体は、たしかに、前にも述べたとほり、理想なき政治と、功利的な
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