ュ・ド・ブウエリエの『子供の謝肉祭』を選んで、その装飾を画家ドトオマに委託した。
此の演出は、実際、劃時代的成功を収めた。ブウエリエは自然主義の病根を「自然の模倣」に在りとして、ナチュラリスムに対して自らナチュリスムを唱道し、「自然の魂」を捉へる暗示的手法を採用した。それは、今日の「超写実主義」の先駆をなしたものと認められてゐるが、『子供の謝肉祭』には、まだ自然主義そのものから区別される著しい特色は見えないやうである。たゞ、狂燥と愁訴の雰囲気につゝまれた愛慾の世界、道化た仮面の下を流れるほろ苦がい涙の味が、独特なリリスムとなつて一つの傑れた近代悲劇を形造る。そこに、在来の写実劇には見られない「感情の昂揚」がある。彼の思想には、往々かの単純主義者に見るぎごちなさがあり、その技巧には、直接ソフォクレス乃至シェクスピイヤを模倣した点があるやうに思はれるが、彼の作品は、上記『子供の謝肉祭』以後、『女の一生』『奴隷』『テエブ王エヂポス』『トリスタン・イゾルド物語』に至るまで、全体として、直截な心理描写と、超自然に対する一種信仰に似た力の肉迫によつて、極めて感動に満ちた劇的効果を挙げてゐる。
科学者にして哲学者を兼ね、「網膜に依らざる視覚」の生理的発見によつて学界を驚かした詩人ジュウル・ロマンは所謂「ユナニスム」の唱道者である。大戦前、戯曲「都市占領軍」を発表して劇作家としての第一歩を踏み出した。「ユナニスム」に関する詳論は此処でする暇はないが、要するに、群集の心理活動、共同意志の世界を対象とする一種の芸術的立場を指すので、処女作『都市占領軍』は戯曲として欠点の多いものであるが、戦後ヴィユウ・コロンビエ座で上演した『クロムデイル・ヴィエイユ村』は、多くの批評家によつて殆ど黙殺されたにも拘はらず、演出者ジャック・コポオは、これを以て偉大な劃期的作品が屡々遭遇する運命なりとした。その後『放蕩の虜になつたツルアデック氏』及び『クノック』『ツルアデック氏の結婚』の三作は、軽妙なファンテジイと辛辣な諷刺によつて、作者の多面な才能を示すものとして劇壇の注目を惹いた。
彼は、ヴィユウ・コロンビエ座附属演劇学校長として、詩学の講座を担任し、なほ演劇に関する公開講演を行つてゐる。
驚嘆すべき幻想の詩人、透徹した人生の批判者ジョルジュ・デュアメルは、『戦ひ』『彫像の影に』の二作を以て、クロオデル流の象徴的社会劇を試み、光輝ある未来を期待させ、大戦後『闘士社』『ラポアントとロピトオ』の二作を発表したが、予期の進境を示さないのみか、却つて前二作、殊にその小説に見るが如き思想の清澄さを欠き、僅かに天才的感性がその片影を留めてゐるに過ぎない。
かゝる時、直接イプセンの影響を受けた「論議する芝居」の輝やかしい幕が、マリイ・ルネルウなる一女性作家の手によつて閉ぢられたことを特筆しなければならない。『解放されたもの』はブリュウの社会劇を足下に見下してゐる。
欧洲大戦直前の仏国劇壇は、前に述べた如く、兎も角も、或る方向に大きく動いて行くやうに思へた。然し、如何なる時代に於ても「新しきもの」が生れ出ようとする時には、常に大きな障碍が控へてゐる。それは既成の地盤である。
第二の自由劇場、第二のアントワアヌが現はれて来なければならない。
『仏蘭西新評論』社同人中に、演劇学者として、また評論家として、当時さゝやかな存在を認められてゐたジャック・コポオが、同人等の後援を得て、ヴィユウ・コロンビエ座を創立したのが一九一四年である。演劇の本質は、古来の劇的天才が、その不朽の作品中に遺憾なくこれを盛つてゐる。吾々は、その本質を探究吟味して、これを完全に舞台の上に活かし、凡ゆる不純な分子を斥けて、演劇の光輝と偉大さとを真に発揮せしめようといふのが、コポオの主旨である。新奇を衒ふ似而非芸術家と、因襲を墨守する官学的芸術家への挑戦である。
ヴィユウ・コロンビエ座は、そこから「無名作家を世に出す」ことを誇る前に、明日の作家をして、演劇の本質を体得せしめ、彼等をして、「永遠に新なる」作品を創造せしめようとする。
此の運動は、欧洲大戦のために、一時阻止されてゐた。
四、欧洲大戦後
欧洲大戦は、あらゆるものを覆へした。死の影が仏蘭西全土を包んだ。奪ひ取つたものゝ狂喜と取り残されたものゝ悲嘆が巴里の街頭に交錯した。婦人が経済的に独立し始めた。中産階級が姿を消した。神を信じてゐたものが神を呪つた。神を嘲つてゐたものが神の前に拝跪した。眼を「自己」の上から「民族」の上に転じた。その眼を、更に、「自己」の上に投げた。
その渦中から、小説では、バルビュスの『砲火』デュアメルの『殉教者の生涯』が生れたに拘はらず、劇作の方面では、殆ど見るべきものがない。
たゞ一九一六年、史詩的象徴劇『鷺の群とフィネット』によつて民族的感情の渦巻を高雅な韻律に託し、『王女』『薔薇色の頬をもてる少女』『慈愛の聖母』等の諸作によつて、愛国的熱情を歌つた詩人フランスワ・ポルシェは、保守的な国立劇場の観客を魅し去ることに成功した。戦後の巴里、国家主義の残骸と超国境主義の萌芽、酔ひつぶれたスモオキングと厚化粧の喪服、ヂャヅバンドとラヂオコンセエル、この生活の色調を写して、「泣くな、笑へ」と教へるアルフレッド・サヴワアルの虚無的デカダニスムは、やゝ時代的特色を伝へたものと云へやう。
『パストゥール』の一作によつて、「真面目な劇」を試みはしたが、そして、名優を父に有つ果報を実証はしたが、生来の駄々ツ子サシャ・ギイトリイは、やはり「きはどい洒落」と「おどけた感傷」の作家である。
『ナポレオン式の男』や『ジャックリイヌ』や、これらの世相喜劇は、正に「愛すべき欠点」をもつ現代巴里人の、涙と笑ひの一幕である。
ポオル・ジェラルヂイも亦、戦後仏蘭西が生んだ有数の劇作家であるが、今日まで発表せられた諸作『銀婚式』『愛すること』及び『大きな息子』を通じては、戦争が彼に何ものを与へたかは、明かにこれを知ることが出来ない。
彼はポルト・リシュ乃至エドモン・セエの流れを汲む写実的心理劇作者であるが、朗らかなセンチメンタリズムに純真な詩的情味を湛へ、社交的趣味に投ずる優雅さによつて、機智の鋭鋒を包む術を心得てゐる。モオリス・ドネエの後継者として、サロンの人気を集めてゐる所以である。
一九〇九年『憑かれたもの』を公にしながら殆ど世人の注目を惹かなかつたアンリ・ルネ・ルノルマンは、『灼土』『砂塵』の二作によつて一部の批評家から認められだした。然し彼が先駆劇壇の陣頭に勇ましく乗り出したのは、戦後名舞台監督ジョルジュ・ピトエフの手によつて、『時は夢なり』及び『落伍者の群』が上演されて以来である。
その後、相次いで『熱風』『夢を啖ふもの』『赤牙山』『男とその幻』『悪の影』を公にして、一歩一歩、潜在意識の神秘境に分け入つた。
彼の新科学に対する好奇心は、異国情調の趣味と並んで、その作品を特色づけてはゐるが、何よりも彼を優れた劇作家としてゐるものは、病的とも思はれるほど鋭い感受性の気まぐれな微動が、瞑想の暗い影を伝つて、底力のある心理的旋律を奏してゐることである。
作劇のテクニックから云へば、目まぐるしい新旧の交錯である。思索と空想、解剖と暗示、ファンテジイとリリスム、苦悶の告白と理智の裁断、そこにはシェクスピイヤとミュッセとマアテルランクとドストイエフスキイとベルグソンとが入り乱れ、融け合つてゐる。
彼の取扱ふ主題は、前に述べた如く、主として潜在意識の問題である。「第二の魂の盲動」である。時にはアインシュタインの「相対性原理」が基礎となり、時にはフロイドの「精神分析」が根柢となつてゐる。
但し彼は多くの場合、その作中の人物を単に思想の傀儡にして了はない手腕を有つてゐる。それどころか、彼の芸術の力強さは、寧ろそれぞれの人物が、考へる以上に感じてゐることである。思想劇の到達すべき頂点であらう。(春陽堂版拙訳ルノルマン作『時は夢なり』及び『落伍者の群』参照)
フェルナン・クロムランクの名は、制作劇場が始めて『堂々と妻を寝取られる男』を上演して以来、頓に戦後の劇壇を賑はせた。
此のファルスは、恐らく、現代仏蘭西が生んだ最も独創と魅力に富む作品の一つであらう。若く美しく、従順にして快活な妻、傲慢で粗野でお人好しの夫、此の二つの性格が、世にも稀なるシチュエーションを生み、大胆極まる事件の推移と、興味深き心理の回転が、嫉妬の焔を戯画化して抱腹絶倒の場面を現出するのである。しかも、作全体を流れる詩は、憂鬱にして神秘、フラマンの海と森とを包む、たそがれの唄である。
彼は、その前に『面師』及び『初々しき恋人』の二作を発表してゐる。『初々しき恋人』は、ミュッセの浪漫主義とマアテルランクの神秘感とを織り交ぜたドラマであるが、その瞑想には、やゝ病的な主観が附き纏ひ、仏蘭西人の趣味には容れられないものがあるらしい。
『張子の王冠』及び『影を釣るもの』によつて、若く名を成したジャン・サルマンは、制作劇場の俳優として舞台に立つ傍ら、劇作の筆を執りはじめたのである。彼も亦、シェクスピイヤ、ミュッセ、マアテルランクの影響を多分に受けてゐる作家である。殊に、何よりも先づ浪漫主義者である彼は、近代青年の懐疑思想を、バイロンの詩に託さうとした。それはハムレットの捨白、ファンタジオの独白に似て、しかもなほ一層虚無的な心境の告白である。眼まぐるしき感情の飛躍と、未知の世界を凝視する静かな理智の閃きと、そこから、或る独特な心理的リズムを醸し出すところに彼の劇的天分がある。
彼はその後、制作劇場を脱退して、自作『ハムレットの結婚』をオデオン座で上演した。間もなく『予のために予は余りに偉大なり』は、コメディー・フランセエズの舞台にかけられ、新進作家として稀有の待遇を受けた。一作ごとに露はになりつゝある作者の驕慢な主観が、芸術家としての、彼の前途を気遣はせはするが、それが若し、若き天才の自己陶酔であるとすれば、むしろ、将来の成熟を刮目して待つべきであらう。
ヴィユウ・コロンビエ座は、戦後事業の基礎を確立して、着々、理想の実現に向つて進んだが、その間に、幾人かの新作家を紹介した。そのうちで、特に注目すべきはシャルル・ヴィルドラックであらう。彼は中年を越えた詩人である。そして、その劇作は、最も正しき意味に於ける自然主義的作品である。『郵船テナシチイ号』『巡礼』『欠けた人間』『ミシェル・オークレエル』これらの作を通じて見たるヴィルドラックは、その厳密な写実的手法を裏附けるに、かの詩人のみが善く為し得るところの「魂の直感」を以てした。かすかにその片鱗を見せてゐる左傾的な批評精神は、つゝましい愛によつて潤ひ、何人の心をも和げずには措かない。彼は、最も真面目な意味に於ける最も真面目な作家である。その真面目さは、「学校に行くことの好きな模範学生」のそれではなく、「学校に行くことは嫌ひであるが、学校から帰つて来て母親の笑顔を見るのがうれしくてたまらない小学生」の真面目さであると、或る批評家は云つてゐる。彼は写実主義が生んだ唯一の理想主義者であり、その作品は、自然主義の筆を以て描かれた人生の最初の「美しき半面」であらう。
同じくヴィユウ・コロンビエ座で二三の作品を上演し、辛辣な喜劇作者として名を知られるに至つたルネ・バンジャマンは徹頭徹尾、容赦なき皮肉と端倪すべからざるファンテジイの両刀使ひである。その機智には「うま味」がない代りに「ひがらさ」がある。『片眼の鵲』が傑作であらう。
大戦後、ヴィユウ・コロンビエ座の復活に次いで、巴里には新劇団が続出した。デュランの率ゐるアトリエ座、バチイの率ゐるラ・シメエル座、此の二つはピトエフ一座と共に、戦後の巴里を彩る先駆劇団の代表的なものである。
デュランはヴィユウ・コロンビエ座にゐたことのある俳優である。コポオが、動もすれば、仏蘭西趣味に執し過ぎるに反し、デュランは却つて伊太利、殊に西班牙的色彩に傾かうとしてゐる。カルデロン、
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