グラウ、ピランデルロなどを好んで上演する所以である。此の一座から、最近、仏国作家として、マルセル・アシャアルを生んだ。『あたいと一緒に遊ばない』の一作は、此の少壮作家の卓抜なる喜劇的才能を認めさせた。
 バチイは、仏国では他に類のない純粋の舞台監督である。それだけ、彼の演劇論には、北欧演劇学者の影響があるが、彼は何よりも、無名作家の発見に努力し、新作の上演を唯一の看板としてゐるだけに、どこか新劇運動者らしい溌溂味がある。此の一座から世に出で、大なる未来を嘱望されてゐる作家に、ジャン・ジャック・ベルナアルがある。父トリスタンの血を享けてゐるにも拘はらず、彼は、グロテスクな喜劇に向はずして、静かな情緒劇に筆を染めた。『マルチイヌ』『二度燃え上らない火』『旅の誘ひ』等に於て、あくまでも、蕭やかな魂の囁きに耳を傾けた。「音もなく咲いて音もなく凋む一輪の花の命を、或る限られた時間に観察することが出来るとしたら、それは恐らく、彼の戯曲を観ることになるであらう」といふ批評は、蓋し、繊細な暗示に富む心理描写の清澄な詩的表現を云ひ尽してゐるやうに思はれる。
 その他、戦後の巴里劇壇が生んだ新進作家中、ドゥニ・アミエルとオベイ(『にこにこしたブウテ夫人』)、ブウサック・ド・サン・マルク(『ギュビオの狼』)、フォーレ・フレミエ(『混乱の吐息』)、マルシアル・ピエショオ(『パスカル嬢』)、レイナアル(『心の主』『凱旋門下の墳墓』)、クロオド・アネ(『ブウラ嬢』)、アンリ・ゲオン(『階下の貧者』)、アンドレ・ジイド(『サユル王』)等は、それぞれ興味ある作品を発表して新しい問題を提供した。
 度々引合ひに出たヴィユウ・コロンビエ座の首脳ジャック・コポオも、最近、『生れ家』といふ処女劇作を発表して、批評家をアツと云はせた。それは、スカンヂナヴィヤの肉に仏蘭西のソオスを掛け、フラマンの胡椒を振つたやうなものである。イプセンドベリイコポオランクである。しかし、流石に一世の舞台芸術家である。家族制度の悲劇を主題として陳套に陥らず、各人物の性格的対立も、極めて鮮やかな表現に達し、その結構の手堅さ、わけても彼独特とも思はれる微妙な対話のリズムが、此の戯曲をして、傑作の名を擅にさせる所以であらう。兎も角も、此の一作は最近の仏国劇壇に大なるセンセエションを起したのみならず、コポオの名をして、益々光輝あるものとした。
 ダダの詩人ジャン・コクトオが『エッフェル塔上の結婚』を発表し、未来派の作家ジイル・ガリイヌが『春の日のどよめき』を、ララ夫人の組織する『芸術と活動』社の試演舞台に上せたことも附記して置かう。ララ夫人の主張に関しては、本講話『演劇論』中で略説して置いた。
 勿論、まだ名を挙げれば挙げられる作家が可なりある。アカデミイ会員になつて、劇壇に重きをなしてゐる老大家の名さへ、わざわざ挙げなかつたのもある。(エミイル・ファーブル、ロベエル・ド・フレエル等)新進作家のうちでも、その才能に於て上述諸作家と比肩し得るものが、随分あるにはある。が、かういふ紹介の常として、幾分傾向批評が主になるのであるから、例へば、小説家として名声ある作家が、偶々脚本を書き、それが、戯曲としてさしたる特色もなく、その作家の芸術的才能に新しい一面を附加するといふやうなものでない時には、その作家は、こゝで問題にする必要はないと思つたのである。例へば、ロマン・ロオランやブウルジェの戯曲は、共に、われわれに取つて興味はないものである。それよりもアナトオル・フランスの小喜劇『クランクビル』には、まだ独創的な魅力がある。
 劇作家としてならば、アンドレ・シュワレスよりもまだしもエミイル・マゾオを挙げ、モオリス・バレスよりもマルタン・デュ・ガアルを挙げるのが至当であらう。

 扨て、仏蘭西の現代劇を通じて、「昨日の演劇」の余映と、「明日の演劇」の曙光とを、はつきり見分けることが出来るとすれば、前者は、観察と解剖の上に立つ写実的心理劇、並びに論議と思索とを基調とする問題劇であり、後者は、直感と感情昂揚、綜合と暗示に根ざす象徴的心理劇乃至諷刺劇であらう。
 此の二つの流れは、それぞれ出発点を異にしてゐることは云ふまでもないが、前者が後者の上に、何等、好ましい影響を与へてゐないといふ見方は誤りである。いろいろの意味に於て、今日の演劇は、写実よりの離脱に向ひつゝあると同時に、新しき象徴手法の舞台的完成時代であると云へるが、演劇に於ける写実主義の根柢は、それほど、薄弱なものではない。実人生の相《すがた》が一つの舞台的表現によつて、美しい真理の光を放つ時、そこには、現実の正視による活きた観察が動いてゐなければならない。想像も誇張も、それから上のことである。
 現代の仏蘭西劇は、ベックによつて先づ正しい現実の視方を教へられた。所謂、写実の境界に慊らない作家は、なるほど、シェクスピイヤに走り、ミュッセに走りマアテルランクに走り、希臘に走り、中世に走り、更に様々な近代主義に走りはしたが、そして、仏蘭西現代劇は、文学的流派を超越して、殆ど無政府状態を現出しはしたが、なほ且つ、今日の仏蘭西劇、その本流を形造るものは、その手法の如何に拘はらず、「人間の魂の一層深き探究」である。
 クロオデルとルノルマンとヴィルドラックとが、倶に先駆劇壇の舞台を闊歩する所以である。
 こゝまで書いて来て、何んだか物足らない気がする。いろんなことを云はうとして、どれも満足に云へなかつたやうな気がする。こんなことなら、始めから作品本位の紹介に留めて置いた方がよかつたかも知れない。が、一体、文学史的に見れば、現代はまだ未知数なのである。世評や独断に従つて論議を立てることは慎みたい。
 と云つて、公平な観方は、今から三十年、五十年後でなければ出来るものではない。
 ついては、読者諸君は、此の紹介を読まれるに先立つて、前掲の『演劇一般講話』を一読された上、紹介者の立場を明かにして置いて、本文中の各作家に対する批評を味はつて頂きたい。さうしてからこんどは、更に詳しい研究にはひつて頂きたい。
『現代仏蘭西の劇作家』――この標題は、寧ろ、『現代仏蘭西戯曲壇の瞥見』とでもした方が適当であつたらう。



底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
   1930(昭和5)年2月8日発行
初出:前文、一、自由劇場時代、二、自由劇場没落後「文芸講座 第十三号」文芸春秋社
   1925(大正14)年4月25日発行
   三、一九一〇年前後、四、欧洲大戦後「文芸講座 第十四号」文芸春秋社
   1925(大正14)年5月15日発行
※「文芸講座」掲載時の題は「現代仏蘭西の劇作家」。
※カタカナ書きの名詞に見られる拗促音の小書きの混在は底本のままとしました。但し、以下のルビ中の拗音、促音を、小書きしました。「境遇(シチュエション)」「結構(コンポジション)」「道化味(ビュルレスク)」「心理的|陰影(ニュアンス)」「感興(ファンテジイ)」
入力:tatsuki
校正:Juki
2009年4月18日作成
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