した。
ダダの詩人ジャン・コクトオが『エッフェル塔上の結婚』を発表し、未来派の作家ジイル・ガリイヌが『春の日のどよめき』を、ララ夫人の組織する『芸術と活動』社の試演舞台に上せたことも附記して置かう。ララ夫人の主張に関しては、本講話『演劇論』中で略説して置いた。
勿論、まだ名を挙げれば挙げられる作家が可なりある。アカデミイ会員になつて、劇壇に重きをなしてゐる老大家の名さへ、わざわざ挙げなかつたのもある。(エミイル・ファーブル、ロベエル・ド・フレエル等)新進作家のうちでも、その才能に於て上述諸作家と比肩し得るものが、随分あるにはある。が、かういふ紹介の常として、幾分傾向批評が主になるのであるから、例へば、小説家として名声ある作家が、偶々脚本を書き、それが、戯曲としてさしたる特色もなく、その作家の芸術的才能に新しい一面を附加するといふやうなものでない時には、その作家は、こゝで問題にする必要はないと思つたのである。例へば、ロマン・ロオランやブウルジェの戯曲は、共に、われわれに取つて興味はないものである。それよりもアナトオル・フランスの小喜劇『クランクビル』には、まだ独創的な魅力がある。
劇作家としてならば、アンドレ・シュワレスよりもまだしもエミイル・マゾオを挙げ、モオリス・バレスよりもマルタン・デュ・ガアルを挙げるのが至当であらう。
扨て、仏蘭西の現代劇を通じて、「昨日の演劇」の余映と、「明日の演劇」の曙光とを、はつきり見分けることが出来るとすれば、前者は、観察と解剖の上に立つ写実的心理劇、並びに論議と思索とを基調とする問題劇であり、後者は、直感と感情昂揚、綜合と暗示に根ざす象徴的心理劇乃至諷刺劇であらう。
此の二つの流れは、それぞれ出発点を異にしてゐることは云ふまでもないが、前者が後者の上に、何等、好ましい影響を与へてゐないといふ見方は誤りである。いろいろの意味に於て、今日の演劇は、写実よりの離脱に向ひつゝあると同時に、新しき象徴手法の舞台的完成時代であると云へるが、演劇に於ける写実主義の根柢は、それほど、薄弱なものではない。実人生の相《すがた》が一つの舞台的表現によつて、美しい真理の光を放つ時、そこには、現実の正視による活きた観察が動いてゐなければならない。想像も誇張も、それから上のことである。
現代の仏蘭西劇は、ベックによつて先づ正しい現実の視方を教へら
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