、私の鼻をかすめたのだ。なんの臭だらう。さう思つて、あたりを見まわして見るが、その臭は、何処から臭つて来るのでもなく、実は自分の鼻の孔に籠つてゐるらしいのである。
私は、鼻をくん/\云はせて、この不思議な「臭の幻覚」を追ひ払はうとしたが、全く無駄であつた。
それはたしかに、あの栗焼きの店が出る頃の、人通の絶えたリユウ・デユトオの臭である。更にまた、外套の襟に頤を埋めた無帽の少女が、最後の廻れ右をするオヂオン座横の露路の臭である。
かういふ不思議な現象が、最近五、六度もあつたらうか。いろ/\研究の結果、それは私か多少とも風邪を引いてゐる時に限るといふ奇妙な事実を発見したのである。
私は、今また風邪を引いてゐる。そして、幾冬かの間嗅ぎ慣れたかの巴里の夜の臭を、今、懐かしく嗅ぎ直してゐる。
さうだ。今でこそ懐かしいなどと云つてゐるが、その臭は、私の過去を通じて、最も暗く、最も冷たい放浪時代を包む呪ふべき臭だつたのである。
風邪と巴里とが結びついた序に、巴里で風邪を引いた時のことを考へ出して見る。
いよ/\伊太利《いたりー》へ発《た》つといふ間際に、発熱三十九度何分といふ騒ぎで、同行のH少佐を少からず心配させた。
それでも、病を押して、陸地測量部で開かれる聯合国々境劃定委員準備会議に出席したにはしたが、タクシイの中で眩暈《めまひ》がしてしやうがない。
宿に帰り、寝台に横はつてゐると、H少佐はY博士を伴つて見舞に来てくれた。
発てるか発てないかといふ問題である。
ヴエロナで、各国の委員が落ち合ふ日取は、今日、決まつたばかりである。其処では重大な会議が開かれる筈である。
私は、どんなことがあつても、行くと云ひ張つた。
幸ひに、リヨン停車場を発つ朝は、熱が下がつてゐた、しかし、からだは極度に衰弱してゐる。小さな手提鞄が死体のやうに重かつた。
ヴエロナの宿は古い大理石の建物である。日が暮て、窓に倚ると、誂へたやうにギタアの音が聞こえて来る。恐ろしく咽喉が渇く。脚が顫える。瞼が重い。ふと、ロメオとジユリエツトの墓が此の町にあることを思ひ出す。さつき通りがけに見たアレナの廃墟が不気味な姿で眼の前に浮かんで来る。
――いけない。やつぱりおれは熱がある。
かうして、私は、その翌日、自動車でガルダ湖の周囲をドライヴし、翌日は三時間に亘る委員会に列席し、その夜は
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