とが極度にその生活を支配する趣味的ボヘミヤンの典型である。自ら帆走船を作り、フレムを工夫し、浴室を建て、マムシ酒を醸造し、家族の病気を診断し、手製の体温器を挟ませ、同じく手製のハカリを以て投薬し平然として快復を信じてゐる。種痘はペン先の古きを砥いで之を行ひ、注射の針は八回に及ぶも之を替へず、下痢止めには懐炉灰を飲ませ、細君のお産は三日目に床上げをさせるのである。
此のA氏は私が病院にはいつても、度々見舞に来てくれ、H博士に様々な医学上の建言をしてゐたやうである。
私は嘗て「奇妙な風邪」を引いたことがある。それは、台湾から香港《ほんこん》に渡る船の中である。当時の打狗《たかお》から香港まで、日本貨十円といふのが三等の賃金で、その代り、苦力《くりい》と同房の船底である。あんまりひどいと思つたが、我慢をすることにして、莚《むしろ》の上に寝ころんでゐると、その晩、忽ち悪寒を覚え咽喉がかわき体温を計ると四十一度ある。
船が厦門《あもい》に着く頃、とう/\一等に代る決心をした。ボーイの肩につかまつて、フラ/\と甲板を歩いて行く寝巻姿の私を、支那の苦力たちは笑ひながら見てゐた。
其処は一等船室である。莚の代りに、純白のベットがあり、花瓶には花があり、水差には水があり、もうそれだけで、私は気持が爽かになるのを覚え、頭は急に軽くなり、熱は三十六度代に下つてゐた。
香港に着く前には、甲板を大股に歩きながら、船底の熱病を忘れてゐた。
処で、面白いことには、初めから一等を買へば全部で三十円なのを、厦門から一等に代つたゝめ、支那銀で二十両支払はなければならず、当時の為替相場で、日本貨四十円である。かういふ種類の損害は何時までも記憶を去らないものと見える。
夜遅く巴里《ぱりー》の裏通を歩いてゐると、一種独特な臭気が、何処からともなく鼻をついて来る。それが多くは、冬または冬に近い季節の夜である。
私は、いまだに、その臭気が何物の臭であるか、わからずにゐるのだが、それは多分煙草のヤニと、牛の血と、バタの腐つたのと、洗濯物と、それらの混合した臭ではないかと思つてゐる。一口に云へば、それが巴里のかの有名な下水の臭かもわからない。
その臭も、日本に帰つてから可なり長く臭がないので、自然忘れてしまつたところ、近頃、ふとその臭を思ひ出したのである。思ひ出したといふよりも、その臭と同じ臭が
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