タイピスト嬢に十枚の意見書を筆記させ、三日目には、チロル、アルプスの麗、メラノの小邑に向つて長途の自動車旅行をやつてのけた。
 真夏の空に輝く千年の氷河を眺めて、私の風邪は何処へやらふつ飛んでしまつた。

 今年の二月、私は満二年の療養生活を卒《お》へやうとする最後の時期に、M博士の所謂試験的感冒に罹つた、これを無事に切り抜ければ胸の方は全快といふ折紙がつくわけである。
 例の海岸の発病以来、絶対に「風邪を引くこと」を禁じられてゐた窮屈な生活から、いよ/\解放される時が来たのだ。
「もう、いくら風邪を引いてもいゝ」――なんと愉快な宣告ではないか。

 ある西洋人が、日本に来て、「日本人は何時でも、みんな風邪を引いてゐる」と云つたさうである。
 なるほど、さう云へば、さうかも知れない。第一、日本人の声は大体に於て、西洋人が風邪を引いた時の声に似てゐる。
 第二に、日本人くらゐ痰を吐く人種は少い。
 第三に、劇場や音楽会や、いろ/\の式場などで、日本ぐらゐ咳の聞こえるところはない。いよ/\始まるといふ前に、先づ咳払ひをして置く。一段落つくと、あゝやつと済んだといふ咳払ひをする。芝居なら、幕の開いてゐる間でも、一寸役者の白《せりふ》が途切れると、あつちでもこつちでも咳をする。
 私の知つてゐるある婦人は、なんでも静かにしてゐようと思ふと自然に咳が出るさうである。つまり、呼吸《いき》をこらすと咽喉がむづ/\するんだらう。これなどは、生れながら風邪を引いてゐる証拠である。
 今年は私もせいぜい風邪を引かう。



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「時事新報」
   1929(昭和4)年1月3、4日
初出:「時事新報」
   1929(昭和4)年1月3、4日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月14日作成
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