合にもついて廻るといふことは考へものである。勿論、築地小劇場ばかりについて云つてゐることではなく、新劇協会あたりでも此の弊は非常に多く、これが日本の新劇を救ふべからざる固苦しさ、窮窟さ、しめつぽさ、薄暗さ、に陥れてゐるのではあるまいか。
前にも何かの機会に云つたことであるが、日本のイプセン劇上演は、イプセンの微笑を悉く抹殺したと云つてもいい。
再び誤解を除くために云ふが、ここで微笑と云つたのは、極く広い意味で、明るさと云つてもよく、あたたかさと云つてもいい。要するに、翻訳劇なると創作劇なるとを問はず、舞台上のフアンテジイと、機智とを活かす作者演出者乃至俳優の感性は、教養ある見物を劇場に惹きつける最も鄭重な招待状であり、これを観客席に繋ぎ止める最も慇懃な接待法である。そして、これこそ、われわれが恋人のそれの如く渇望する舞台の笑顔である。
われわれは既に旧劇にも新派劇にも、此の笑顔を見ることは出来ない。笑顔を見せてゐるつもりかも知れないが、それは幽霊の微笑に似て、その凄みさへも感じられないものである。或は、どうかすると、田舎婆さんのもてなし然たる五月蠅さと気の毒さを感じることすらある
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