つの食ひ違ひが、どれほど原文の妙味を傷つけてゐるか、それをまた読者なり、演出者なり、見物なりが知らずにゐるか。さうして、外国劇は面白いとか面白くないとか、わかつたやうなことを云つてゐるが、それを考へると、全くやりきれない。
さて、こんなことを云ひ出したのは、何も今更翻訳の杜撰《ずさん》さを攻撃するためではなく、かういふ翻訳を通して、西洋の戯曲がわかつたとか、わからないとか云つて、納まつてゐるのは間違ひだといふ一点を指摘したいのである。
重ねて云ふ、外国の戯曲からはまだ学ぶべきものが多々ある。それは、翻訳を通しては殆ど味はれない「味」である。そして、日本の現代劇に、この「味」が足らないのは、翻訳劇、殊に、最も乱暴な翻訳劇の罪半分と、西洋劇を直接原文で読み得る当今の若い劇作家が、まだ、その西洋劇のもつ「味」――これは各作者の持ち味でもなく、また西洋各国の文学の特色でもなく、更に所謂、西洋劇独特の色彩、西洋人特有の感情、そんなものを指すのでもなく、真に優れた戯曲が、常にそれによつて魅力を放つところの、「語られる言葉の幻象が、われわれ人間の魂に触れる彼の韻律的効果」に外ならない――その「味
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