悪いのではない。「平凡な会話」が「自然なる」が故に佳《よ》しとされたところに、危険がひそんでゐる。
「今日は」
「いらつしやい。だれかと思つたらあなたですか」
「よく雨が降りますな」
「ほんとによく降りますな」
「みなさんお変りありませんか」
「はい、有りがたうございます、お蔭さまでみんなぴんぴんしてゐます。ところで、お宅の方は如何です。さうさう、奥さんがどこかお悪いとかで……」
「なあに、大したことはないんですよ。医者は脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性ですから、少しいいと、すぐ不養生をしましてね」
「それは御心配ですな。どうも脚気といふやつは……」
 かういふ種類の白は、一時、いやでも、おほ方の脚本中に発見する白である。こんな月並なことをくどくどと喋舌られてゐては、聞いてゐるものがたまらない。
「自然な会話」必ずしも、上乗な「劇的対話」でないことはこの通りであるが、その中に何も劇的事件がないからだ、内容がないからだと云ふかもしれない。
 それも慥《たし》かに一つの理由である。然し、そんならこれはどうだ。
「今日は」
「おや、こいつはお珍らしい」
「降りますね、よく」
「どうかし
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