間に、また在ることを発見して驚いた次第である。私はイプセン及びストリンドベリイの仏訳だけは、世界的に名訳と認められてゐることを知つたので、まあ、安心ができると思つた。殊にイプセンの翻訳者ブロゾオル伯は諾威《ノルウェイ》人ださうで、私はすつかりよろこんだ。そして、殆ど原作を読むやうな信頼と親しみとをもつて、一作一作と読んで行つた。邦訳では、それほどイプセンが詩人であるとは思はれなかつたが、こんどはまた、作品の思想の深刻味や、結構の手堅さなどよりも、時代時代に応じてイプセンが、それぞれの意味の優れた詩人であり、殊に、象徴的傾向が鮮やかになるにつれて、近代的な、含蓄の多い対話の、巧妙な駆使者であることを知るに至つた。それと同時に、邦訳を読んだ時には、あんまり気づかなかつたそれぞれの作品の「喜劇味」――思想的にも、また文体の上からも――さういふものを仏訳の中にまざまざと見出して、こいつは面白いぞと思つたのである。
更に自分の恥さらしをすれば、仏蘭西の戯曲ならば、原作が読めると思つて、いろいろ読み漁つたものを、これはここが面白い、あれはあそこが面白いと独りぎめをして悦んでゐた五六年前は、今から考へると、全く戯曲の文体といふものについては盲目であつた。例へば、ポルト・リシュのものなどを読んで、なるほどこれは恐ろしい心理解剖家だ、鋭いものだ、細かいものだ、さう思つて頭を下げてゐた。ところがその後、巴里で暫らく暮して見て、日常の会話にいろいろな疑問が起つたり、あんな言葉をあんな場合に使ふのかといふことを知つたり、あの文句をああいふ風に云ふのかといふことを覚えたり、ああいふ人間が、ああいふ手真似をするんだなといふことを気づいたりしてゐるうちに、ポルト・リシュをもう一度読み直して見てびつくりした。やれやれ、白を云ふ人物の姿、顔、表情、身振、手真似が悉《ことごと》く眼に浮ぶではないか。コメディイ・フランセエズに行つて、『過去』や『ふかなさけ』の舞台を観て、更に面喰つた。やれやれ、あの文句は、ああいふ調子で云つた方がよいのか。あの女は、あれくらゐに泣いておけばいいのか。あの男の、あの長台詞は、ああ云へば、なるほど退屈はさせない。私は、しかもこの舞台の上で、ほんたうに、ポルト・リシュの戯曲がわかつたのである。ポルト・リシュの文体がわかつたのである。ポルト・リシュの芸術が解つたのである。私は
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