なり得るのである。舞台の上で読む「手紙」さへも、この心掛けで書かなければならない。
今まで、主として、写実的な場面について論じたやうな形になつたが、もともとこの写実といふことが、既に現実の複写ではないのであるから、現実整理の筆を更に現実修正の域に押し進めることは、作者の趣味、才能によつて如何なる程度までも許さるべきである。現実修正は更に現実変形、現実拡大、現実様式化に押し進めることもできる訳である。ただその根柢に、その核心に、飽くまでも実人生の姿が潜められてゐなければならないことは、文芸の本質から云つて当然なことである。これはもう、「表現」以前の問題である。制作過程の出発点である。従来わが国に紹介せられた外国劇が、日本現代劇を本質的に発達させ得なかつた理由として、その翻訳が単に劇の思想|乃至《ないし》形式のみを伝へるに止まつて、真の「劇的美」を形造る一要素、即ち「文体のもつ戯曲的魅力」を等閑に附してゐたといふ一事を前章にも一寸述べておいたのであるが、これはもう一度繰返して云ふ必要がある。
ここでその翻訳の例を挙げることは容易であるが、自分の経験から云つても、嘗《かつ》てイプセンの邦訳(誰のだつたか忘れたが)を読んで、当時多くの人々と共に少からず感心し、なるほど、近代劇の巨匠と云はれる筈だ、これは天才に違ひないとひとり大いに悦に入つてゐたところが、間もなく同じ作者の同じ作品を、仏語訳で読み返して見て、殆ど別なものであると云ふ感じを受けた。邦訳は、無論そんなに悪いものではないと思つてゐたにも拘はらず、仏訳を読んだ時の、あの感動は、実に名状し難きほどのものであつた。これはまた、とても素敵なものだ。どうしてどうして、邦訳で読んだ時のイプセンは、いはば、餡をさらつた饅頭のやうなものであることがわかつた。翻訳劇といふものは、さては中味のない饅頭だな、うつかりしてゐてはいけない、と私は思つた。
それから私は、チエホフ、ストリンドベリイ、ゴオルキイなどを仏訳で読み始めた。悲しいかな、仏訳とても既に翻訳である以上、原作の妙味はどれだけ失はれてゐるかわからない。さう思ふと、露西亜語もやりたくなる。スカンヂナヴィヤの言葉も覚えたくなる。私にはそれだけの根気はなかつたが、兎に角、日本語に訳された欧羅巴の戯曲は、同じ訳語でも、欧羅巴の一国語に翻訳されたものに比べて見ると、雲泥の差がその
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