、それ以来、芝居を観に行くことが怖くなつた。今まで読んだ脚本が、自分にどれほど解つてゐないかといふ試験をされに行くやうなものであつたから。
 私は、抑《そもそ》も戯曲とは……と考へた。抑も戯曲とは、なるほどこれかなあ、と朧ろげながら感じた。その感じを強ひて云へば、結局、何かにも書いたことがあるが、「人間の魂の最も韻律的な響き(或は動き)を伝へるもの」に外ならない。これは、云ふまでもなく、「語られる言葉の、あらゆる意味に於ける魅力」の表現である。
 外国の戯曲は、一体どの程度まで翻訳によつて、その魅力を失はずにすむか、かう考へたならば、翻訳者の責任は、それが戯曲であるために、殊に重大さを増すわけである。私は戯曲だけは、少くとも戯曲を書き得るものの手によつて翻訳せらるべきだと思ふ。それでさへ、十分とは云へない。翻訳者の語学力は、例へ小説は訳し得ても、戯曲は待つて呉れと云ひたいのが普通である。
 くどいやうであるが、この問題についてもう少し述べておかう。今、ある戯曲が二通り翻訳されてあるとする。どちらも意味から云へば正確であり、文章も読みづらくなく、日本語として、別に不都合のないやうなものだとする。而《しか》もその文体に於て、言葉の調子に於て、場面の動きに於て、つまり全体の「命」と「閃き」に於て、両者に格段の差があるとする。それは翻訳者が如何に翻訳が巧みであるかといふ前に、如何に原作が解つてゐるかといふ問題になるのである。一節だけを示したのでは、絶対的の価値批評はできないが、試みに仏蘭西語で次の句が、幾通りの日本語になり得るかを考へてみるがいい。而も、それが実際の場合にはただ一つの訳し方しかない。
 Tu as raison.
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お前の考へは正しい。
お前の言ふことは尤《もつと》もだ。
お前の云ふ通りさ。
お説御尤も。
それはさうだ。
それはさうだね。
それもさうだ。
さうだつたね。
いや、まつたくだ。
それを云ふのさ。
それや、さうさ。
さうともさ。
さう、その通り。
さうだとも。
さう、さう。
それ、それ。
それさ。
なるほどね。
なるほど、さうだつた。
そいつはいい。
うまいことを云ふぞ。
それがいいや。
それに限る。
それにしよう。
それもよからう。
さうしよう。
その方がいい。
さう云へば、さうだ。
ほんとにさうだ。
それや、まあ、さうさ。
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