のですか。あの「微笑」がお気に召さないのですか、聡明なるペシミストの微笑が。――それはよくわかります。
 人生に触れ方が足りないとは、どう触れ方が足りないのですか。ルナアルの人生観が浅薄だとおつしやるのですか。それとも、誤つてゐるとおつしやるのですか。人生の観方は一つでなければならないのですか。人生は必ず、武者小路氏の観られる如く観なければならないのですか。ルナアルの芸術は、常に、一種の禁欲主義的思想に彩られてゐます。武者小路氏は、そこを不満に思はれるのでせう。――それならよくわかります。
 以上が、武者小路氏のルナアル観に対する註釈である。
 つぎに、武者小路氏は、西洋の作家は「言葉を活かす」ことに於て傑れ、日本の作家は「沈黙の価値」を識ることに於て一日の長があると云はれる。
 西洋の作家の一例として、勿論ルナアルが引合ひに出されてゐるわけである。
 第一、「言葉を活かす」ことゝ、「沈黙を利用する」ことゝ、それほど違ひがあるであらうか。「言葉の活かし方」が、暗示的であればあるほど、「沈黙が利用され」たことになるのではあるまいか。そして、この点が、近代文芸の特質を形る重要な傾向ではある
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