まいか。
 マラルメとマアテルランクは、此の意味で、最も「言葉を活かし」、最も「沈黙の利用」を識つてゐる作家であつた。そして、彼等象徴派の詩人と並んで、昨日までは一個の自然主義者と目されてゐたジュウル・ルナアルが、今日、最も新しき芸術の開拓者として、世人の注目を惹き出したことは決して偶然ではないのである。
「沈黙と闕語とに生彩あるイメージを与へ」簡素にして含蓄多き文体を渾然たるリリスムの域に押し進めた彼れは、如何に「沈黙の価値」を識る日本の作家中にも、稀に見るべき「沈黙の利用」者であると云ひたい。
 殊に、問題の作品は心理解剖の喜劇である。作中の人物をして比較的「多く語らしめる」ことは理の当然である。「多く語る」こと、「寡く語ること」が直ちに「沈黙の価値」に関係はない筈である。此の意味で、日本の劇作家は、その作品中に、あまり「多く語る」人物を使つてゐない。それは事実である。寧ろ、日本の作家がその作中に描く人物は「別に何も言ふことがない」のかも知れない。これまた、「沈黙の価値」と少しも関係はない、若し多くの日本の劇作家が、その作品中に、「沈黙を利用」するとしたら――恐らく無意識に――その
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