と偉大な人間にふさはしい考へ方だといふことがわかつた。どうもわれ/\は、自分たちの才能や、力量以上に「立派な考へ」をもたうとする傾向がある。「考へ倒れ」なんていふのは、あんまり気が利かないではないか。
 それよりも、自分の好きなこと、自分の性に合つたことを愉快にやつてゐて、それが「何かの役に立つ」ことをモデストマンにこひねがふことこそ、仕事らしい仕事なのではないか――といふ考へ方が、どうやら正しい考へ方のやうに思はれて来た。
 個人主義への逆戻りだと笑ふものがあつても、私は、せめて、「天分」の問題だけは、個人主義的解決にまかせたい。

 昨日新劇協会の初日は、例によつて、ひつそりとした初日だつた。
 あれほど評判になつた『人生の幸福』が今度再演されると聞いて、天下の好劇家は先を争つて観に来るだらうと思つてゐたのに、これはまた意外である。尤も、あと九日間あるのだから、その九日間が満員客止めの盛況を呈するかもわからないが、それでも初日らしく、もつとはな/″\しく幕を開けたかつた。

 金子洋文君の『牝鶏』は私がかねて、某紙上で月評をした作品であるが、読んだ時にははつきりつかめなかつた地方色が、舞台の上では鮮かな効果を示し、素朴にして、真純な作者の詩境が無条件に受け容れられた。これをプロレタリアの健康性と見るもよし、この程度の社会意識なら一向邪魔にならぬ。伊沢、花柳両君の演技は、正に一対の傑作であらう。生方君の神妙さと共に、充分推賞に値するものである。
 金子君は、よきプロレタリア作家である。
 伊沢、花柳両君もまた、よきプロレタリア俳優である。
 何となれば彼等は、たゞ、単にプロレタリアを楽しませるだけでなく、恐らくブウルジュアの男女をも等しく感動させるであらうから。

 序にクウルトリイヌの『わが家の平和』について語ることを許してもらひたい。
 この作品の面白さについては喋々を要せぬ。また、これを以て「曾我廼家」劇の類となすものゝ鈍感さ、偏狭さ、他愛なさは敢て問題とするに足らぬ。
 私がこゝでいひたいのは、かういふ脚本を演ずる俳優の苦心についてゞある。
 私は伊志井君の演技の中から、今日まで日本の俳優が嘗て示し得なかつた一つの「創造」を発見したのである。この創造は、確かに日本の新劇に、一道の光明を投げかけてゐる。
 由来日本の新劇俳優は、アクチングのニュアンスを無視し
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