梅雨期の饒舌
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雨期《セエゾン・ド・プルユイ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)われ/\は
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 自分一人の力ではどうにもならないやうなことを、やれどうしなければならぬ、かうしなければならぬと、むきになつていふのは、落付いて考へて見ると、甚だ滑稽であり、ある種の人から見れば、さぞ片腹痛く思はれるであらうが、何時の時代にもまた何れの社会にも、かういふ「おせつかい」がゐて、頼まれもせぬことを、頭痛に病んでゐるらしい。
 例へば、社会改良(或は革命)家とか、文芸批評家とかいふ類の人間は、どつちかといへば、この「おせつかい」が多く、私などは、その何れにも属してゐないつもりでゐながら、たゞ芝居のことゝいふと、何時の間にか眼に角たてゝ物をいつてゐるので、気がついて見ると可笑しくなることがある。

 私は一体何のために、誰のために、こんなにまで「芝居」のことを考へ「芝居」のことを論じ「芝居」のために時間と労力とを費してゐるのだらう。
 かう考へて来ると、自分ながら気恥かしくなる。
 少しばかり外国の言葉をかぢつたがために、翻訳といふ仕事にありつき、偶然、西洋の芝居を見たがために、戯曲の翻訳に興味を覚え、自分でも脚本の真似事を書いて見る気になり、それを上演するについて日本の俳優の素質といふものを考へるやうになりなどして、たうとう芝居にかけてはひとかど苦労をしたやうな顔をしなければならなくなつた。
 何としても現在の日本は実力のない「専門家」の跋扈する時代である。何かを一寸ばかり習つた人間が、すぐに、それを人に教へたがる時代である。おれはかういふことを知つてゐるぞと吹聴しさへすれば、それよりまだほかのことを知つてゐるやうに思はれる時代である――馬鹿げた時代もあつたものだ。
 私は、何も、世間を胡魔化してゐるつもりはない。また私などに胡魔化される世間でもあるまいが、さういふ時代だけに自分のやつてゐることを省みて、屡々警戒の必要を感じるのである。

 日本の芝居を少しでもよくするためなら、自分の労力ぐらゐ犠牲にしてもかまはない。いくらか不愉快なことも忍ばなければならない――といふ考へ方を、立派な考へ方だと思つてゐた。しかし、それはもつ
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