ているものによって、同じ舞台の上で自分の演技の魅力をそがれてしまう、というようなことを聞きます。これは芝居の方でも、映画の方でもそういうことがある。経験のあるものが経験のないものより魅力がないということがあるのです。これは経験のある、つまり先輩たる俳優にとっては、実に容易ならんことであって、度々問題になるのですけれども、それについてここでは詳しくは云いませんが、それは先輩たるものが俳優としての修業の積み方に、どこか不完全なところがあったということであります。いいかえると、素人のうちはもっていたいいものを失っているのです。而もそれは俳優として大事なものです。舞台の経験がそれを失わせるのではない。永い俳優生活の惰性が演技を型にはめてしまったのです。こういうことを、後輩の、つまり若い、自分よりも新しい俳優によって、絶えず見せつけられているのです。そこに一つの大きな脅威がある。しかし、それをただ脅威とせず、それによっていい刺戟を受け、自分の中に持っているものが失われないように、常に反省すべきです。
その次は見物です。
見物のことをお客という。お客さんということは、金を払って来るからお客さんでしょうが、お客というようなことを云うのが、そもそも怪しからぬと私は思う。或は贔屓ともいいます。このお客とか贔屓とかいう言葉はどういうことか。俳優は一体何をお客や贔屓に与えているのでありましょうか。もっと広く云えば、俳優は金を払って芝居を見に来る人、映画を見に来る人に、何を与えているのでしょう。与えているもの如何によっては、文字どおりお客でありましょうし、贔屓でありましょう。このお客とか贔屓とかいう言葉が生れたことは、俳優が見物に何を与えているかということを考える場合に、単に商品を与えていたということを告白しているのです。俳優はその演技によって、見物を楽しませているということは、これは事実でしょう。しかし見物に或る楽しみを与えているということだけで満足できましょうか。見物を楽しませるということの意味が、いわゆる見物にサーヴィスするということであったら、その俳優は見物に実にくだらないものしか与えないわけです。そういう俳優のこの卑下の心理が、お客とか贔屓とかいう言葉に現われています。そうではありません。本当の俳優が見物に与えるものは、もっと尊いものです。尊いものを見物に与えるというのは、見
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