、舞台にかけるまでは二人で協力してやる例は度々なのです。今日の日本はそういう状態にまだなっていないようですが、これは作者の方もそういう風につとめなければならないと思う。
今度は同僚の場合です。同僚というものは非常に面倒なものです。同僚であり同時に競争相手です。相手があって初めて芝居ができるのであるけれども、しかし往々にして、相手の為に自分の芸というものが舞台の上で消されて了う。食うとか食われるとかいう言葉が俳優の間で使われるのはその為です。しかし、芸術的な協力というものは、他の部門では、例えば絵や彫刻の場合、或は音楽の作曲とか演奏とか、殊に文学の作品に於ける合作という場合には、二人の間に全く一致した見解と助け合う気持がなければ、できないのですけれども、俳優は往々にしてそうでなく、稽古の時には両方でちゃんと調子を合わせて稽古しながら、いざ舞台に上るというと、相手の芸をなるべく目立せないようにして、自分の芸をなるべく目立たすようにするというような、非常に陰険な卑劣なことが、因襲として今日まで行われているのです。常にそうではないけれども、そういうことが俳優の場合には度々行われる。これは日本ばかりでありません。西洋でもそういうことが度々あります。殊に日本の古い芝居の如きは、その中の主な役をとった役者が、最も舞台の中心になって見物の注意を集めなければならない必要上、必ずしも芸術的な効果という点ばかりでなく、その俳優が自分の権勢慾、名誉慾のために、他の役者を犠牲にするというようなことが、今日もなお行われているようです。これは決して芝居の本当のよさというものを見物にみせることにならないのです。こういうことが行われているということが、実際、俳優というものの社会的品位を非常に落しているのです。
同じ俳優同士でも、その中に先輩、同輩、後輩というものが自ら分れるわけです。先輩、同輩、後輩というものに対する、それぞれの誇りと嗜みというものは、先程いった職業人として表に持っているべき誇りと嗜みということから一歩も外にでない筈だと思います。先輩からはいろいろな指導も受けなければなりません。同僚からはいろいろな相談を受けなければなりません。後輩からはまた、いろいろな刺戟を受けなければなりません。よく俳優が舞台の経験を積めば積む程、或るものを失って行き、舞台の経験の全くない、或は浅い俳優が持っ
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