ろ出来ているようです。しかし、その俳優という言葉のただ定義だけでは、それぞれの俳優がどういうつもりで俳優を志したか、俳優になっているか、俳優という職業に従事しているかということは殆どわからないのです。これは一般に俳優というものの定義を通じてすべてそういう傾向があります。そこで、俳優とはなんぞやという問題をわれわれが考える場合は、俳優というのはこういうものだということを、ただ世間一般が考えているような考え方でなくして、寧ろ俳優の立場から、俳優というその地位に自分がたって、そうして俳優とはなんぞやということを考えなければならない。そこが非常に違うのです。例えば、俳優というのは舞台の上で戯曲のなかにある人物に自ら扮して、そうして演技によって観客にその人物の生活を再現して見せるものである、という定義がここにあるとする。そうすると、その定義はなるほど定義として、先ず大体に於て、俳優というものの性質をいい尽しているようです。しかしそれならば、そういうことのどこが一体面白くて俳優になっているかということは、それでは全然わからない。また、そういうことをすることが、一体どういう目的にそうのであるか、また、なんのためになるか、ということもわからない。人間が銘々いろいろな仕事をするためには、その仕事の目的というものがちゃんとある。そうしていろいろな仕事の性質をいい現わす場合には、それぞれの仕事の社会的目的というものがほぼいい現わされているのが普通です。例えば軍人は軍人としての一つの職業――これは軍人は自分で職業とはいっていないようですけれども、客観的にみれば、やはり一つの職業です――その職業について軍人はなんのために存在するかということは、社会的な仕事の面でちゃんとその目的が明瞭に示されている。俳優というものになると、舞台の上でということから始まる。或は劇場という所から始まる。この劇場なるものが、舞台なるものが、なんのためにあるか、それが切り捨てられていて、考えられていない。そこが私は、俳優という問題を新しく考え直してみなければならない大きな理由だと思う。劇場とか舞台とかが、この世の中にあるその理由までをひっくるめて、俳優とはなんぞやということを考えなければならない。これを、みなさんがその問題について考える一つの基礎として先ず云っておきたい。俳優が社会人として、文化の担当者として、往々に
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