してその自覚が疑われるということは、つまり、俳優とはなんぞやという問題について、俳優自身が徹底的な考え方を今日までしていなかったところにも確かに罪があると思う。また、世間一般も俳優とはなんであるかということに就いて、やはりそういうところまで考えてみなかった習慣が今日まで残っている為だと思う。そこで俳優とはなんぞや――俳優がこの世の中にあるその意味を、もっと大きなところから考えてみなければならない。それが一つです。
もう一つその問題について考える準備として、いつたい[#「いつたい」はママ]芝居というものはどういうものであるかということです。その問題もまた今まで、芝居とは、或は演劇とは、という定義がいろいろ下されている。それらの定義が、やはり、芝居というのはこういうもの、演劇というのはこういうものであるという、その定義の下し方がやはり殆ど常に、それをただ単に他の芸術と区別するために作られた定義にすぎないのです。もう少しむずかしくいうと、美学的定義というものが非常に多い。例えば、美術ですが、絵とはこういうもの、彫刻とはこういうもので、或は音楽とはこういうものであるとして、それらの音楽とか美術とかに対立させて、演劇とはこういうものである、というのは美学的定義といえるのです。そういう定義に立って芝居というものを考えていると、おのずから、俳優というものについて考える時も、今と同じ言葉を使うと、つまり美学的な――俳優の仕事、或は演技というものの美学的地位、美学的な一つの目的というものしか考えられない。これがやはり私の考では非常に狭い。或は俳優の仕事というものを人間の立場から考えなくさせた大きな一つの原因だと思う。
そこで芝居、或は演劇とはなんぞやということを考える場合に、やはりこの社会に、或は人類の間に、演劇、芝居がどういう風にして、なぜ、生れて来たか、そこまで考えなければいけない。そうして、その芝居というもののなかで占めている俳優の位置というものを考えますと、そこに初めて俳優とはなんぞやという問題が、舞台とか或は劇場とかいう、そういう一つの限られた場所から飛躍して、全人類のなかに於て占めている一つの俳優の地位というものが明らかにされてくる。そういうことによって、俳優というものの尊厳な一つの意義が発見されます。
演劇史を少しよんだ人は知っている筈ですけれども、芝居がいったい
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