であるかというと、決してそうでないということも、私は一方で証明できます。一方にどういう人がいるかというと、舞台の上では立派な役者が、平生は殆ど役者であるということがわからないような生活、態度で、役者であるという意識が殆どないような風に見える。実際は、その人の役者であるという意識は、元来そういう現れ方をするのかも知れませんが、しかし少くとも俳優であるということを鼻の先きにぶらさげていない。それならば、そういう人は舞台の上だけで魅力があり、平生の自分に還った場合には、平凡な、誰の注意もひかない、或は場合によっては非常に見窄しい一人の人間になってしまうのかというと、これは決してそうじゃない。優れた俳優は、平生俳優という意識から全く離れて、普通の人間として生活し、人に接している時でも、その人間のおのずから持っている一つの魅力によって、恰も舞台の上でその役者が或る役に扮している時と全く同じような魅力を人に感じさせるものです。これが役者の特色であります。つまり俳優が自分自身の役を立派に演じていると云えるわけですが、そういうことは、何かまだそこに嘘がありはしないかという疑問が起りそうです。しかし、その言葉をどう細かく分析して見ても、それは嘘にはなりません。自分の役というものは唯一つしかない。その役を立派に演ずるということも唯一つしか演じ方はない。普通の人間――われわれ俳優でないものは、自分以外のものにはなれないと同時に、自分というものをそれほど研究していませんから、自分が人にどう見えるかということはそんなに気にしません。勿論、普段工夫を積んでもいない。気取りというものはないことはないけれども、自分の存在が相手に快感を与えるということを必ずしも義務とも誇りともしていない。女の人はこの意味から云うと、いくらかは誰でも俳優であります。それでも普通の人は、自分の人間的魅力というものに対して、そう自信はない。美しいと誰からでも云われる人がややそういう自信をもっていて、それが時によると、人を反撥させることにもなるのでありますが、俳優はいろいろの意味で、人間の魅力とはなにかということをちゃんと心得ているのであります。そして自分はそういうものによって人から愛されていることを自覚し、そこに生活の一切を委ねているのです。この自分の役を立派に演ずるということが、俳優の他の普通の人間と違った一つの特徴で
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