ところはないでありましょうか? 変ったところがあってはいけない、如何なる場合でも俳優であるという意識を失わない、それがやはり立派な俳優である、という一つの説。俳優でも、人に接する時には所謂俳優であるという意識を捨てて、全く一個の人間として人に接すべきであるという説。
この二つの説がありますが、実際その何れかをみな実行しているわけです。私も日本の有名な俳優を幾人か知っております、西洋の有名な俳優に幾人か接したこともあります。なかには比較的親しく、その人の日常生活も知り、また平生ひとを引見する時の態度を観察したことのある人もあります。大きく分けて、やはり今云ったように、所謂俳優としての意識を絶えずもって人に接している人と、俳優であるという意識を全くもたないで、少くとも脱ぎ捨てているかの如き態度で人に接している人と、大体二通りに分けることができる。
それは一体どっちがいいのか。この議論は寧ろ諸君に私の方から聴きたいくらいですが、これは一概にどっちがいいとは云えないと思います。何故かというと、その二種類の俳優に会った印象から云えば、そのいずれにもいい所がある。絶えず俳優らしく、俳優としての意識をもち、平生も恰も芝居をして居るかの如き心懸けを以て人に接しているのを見れば、確にその人が本当に優れた俳優なら、ある意味では立派であります。恰もいい役者がいい芝居をしているのを楽しむように、その俳優に会っている間は、相手の人間は楽しい。現にそういう印象を味ったことが度々私はある。ところが一歩退いて考えて見ますと、そういう態度で人に接している俳優が一旦俳優であることの必要が少しもないような場合、果してそれを押し通して不都合はないか。普段その人を俳優として見る時ならば、非常に魅力のあるその人の態度なり、応待の仕振りなり、或は生活の仕方なりが逆に不愉快なものになった経験を私は持っている。さっき云ったジャン・ジャック・ルソーの如き思想が生れるのは、実は俳優というものは多少いつでも「お芝居」をしているものだという、そういう基礎観念に基いているのです。俳優というものは、人に会っても、どこかにその舞台の上である役を演じているような、そういう意識があるものだ、こういう基礎観念があるからこそ、俳優というものはどこか信用ができぬ、油断がならぬという考え方が生れるわけです。
しかし果してそれが俳優全体
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