みて、俳優の社会的地位の低かったことは争えない事実ですが、そこから、世間の軽蔑も生れているのです。「河原者」などという名はもとはそういう所から起ったのでありますが、しかし、歌舞伎が非常に発達し、劇場としての経済的基礎も出来、演劇そのものが社会の上層まで趣味として入り込んだそういう時代でも、やはり芝居小屋は所謂「悪所」のひとつと見做され、芝居をする人間即ち俳優を、世間は蔭で「河原者」とよんで、何か素性のいやしい人間のように見ていたということは、これはそもそも何に原因するのでしょうか。
封建時代のそういう考え方は、どうして次第に改められなかったか。その原因はやはり俳優自身の社会的存在がまだ十分一般に認められない、つまり社会的地位が十分に出来なかったということに帰する。何故そうであるか、何故そういう風に俳優の社会的地位は出来なかったか。非常に大勢の人を娯しませ、場合によっては大勢の人を感動させ、芝居を見に行くということがかなり高尚な娯楽となり、趣味となった時代でさえも、なおどうして俳優の社会的地位が向上しなかったか。それはつまりこういうことだと思います。
大衆は自分たちを感覚的[#「感覚的」に傍点]に娯しませてくれる人間を精神的に尊敬しないものだということです。芝居というものが感覚のよろこびに終るものである限り、俳優はその人格の力を観衆の上に及ぼすことはできません。日本の芝居の場合は、俳優の肉体の魅力と感覚的なものだけに頼る、ごく狭い傾向が、今日まで俳優をほんとうの芸術家として、その受けるべき当然の尊敬を受けられないようにした原因です。
こういう説明のなかから、直ぐみなさんはその考の誤っていることに気がつかれるだろうと思います。これは社会の通念――世の中一般の人間のものの考え方というものが、如何に浅薄で、同時にものの真髄をきわめていないかということの証拠にもなる。そこで先ず俳優の仕事が尊敬するに足らない、従って俳優の仕事というものは一つの偽りの仕事であるという、こういう考え方に対して、それではどういう正しい考え方があるかということを申します。
俳優の仕事に対するそんな考え方は、俳優だけの場合を考えますと、如何にも俳優に対して不公平であるように考えられましょう。それはその通りで、一般に芸術論というものの幼稚な発達しない時代に於ては、ただに俳優ばかりでなく、すべて芸術
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