家というものに対して元来社会はそんな見方をしていたのです。ただ、多くの他の芸術家は一般の公衆の前に姿をさらしていない。その作品を通じて公衆に接している。例えば、物語の作者、今日でいう小説家、或は画家、建築家、音楽の作曲家、そういう芸術の製作者達は自分の作品を通じてのみ一般公衆に見えているので、自分の姿をみせていない。これが一つの逃げ道であって、その仕事それ自体に対する社会一般の誤った通念の矢面に立たないですんだ理由です。ところが、俳優、舞踊家、音楽の演奏家、こういう人々は総て自分の姿を公衆の前に出す。それで、俳優ほどではありませんが、舞踊家が踊りをする、音楽家が演奏をするということは、一般世間からそのものが本当に価するだけの尊敬をうけていなかった。小説の作者、或は画家というようなものも、その作品自体で一般の人達を感動させた場合には、その仕事そのものは世間の人達の讃嘆の的になるのですけれども、しかしそれにしても非常に優れた傑作のみが一般世人の讃嘆の的になるのであって、小説を書く仕事、或は音楽の作曲をする仕事、殊にまた舞踊の振付をする仕事自体に対して、世間はなんら理解はなかった。小説の作者、物語の作者というものは、やはり社会の一般水準からいいますと、決して高い地位はえてなかったのです。
しかし、今いったように、俳優の場合、そういう一般の芸術家に対する考え方のなかにあって、特に自分の姿を公衆の前にさらすということがあり、而も自分の姿のままでなくて、それを偽って見せると世間は思っております。偽って、だまして、自分以外の姿として、それを人に見せている。それは今いったように芸術論というものの幼稚な時代の一つの一般的な考え方であるが、それならば今日はどうか。今日でも尚且つ一般世間は芸術に対して、それ相当な尊敬を決して与えておりません。これも俳優芸術に限りません。一般の芸術に対して、世間は芸術家が望み、或は芸術を愛するものが望んでいるような尊敬の仕方はしていない。それを土台として頭において戴きたい。もう一つは俳優の芸術、即ち演技というものが、肉体を働かせることによって生ずる一つの感覚芸術であるという誤解です。少くとも肉体のみによって成立つ芸術だと思っている一つの誤解、これを先ず改めさせなければいけない。これも少し考えてみればなんでもないことで、誤解であることは直ぐわかるのですが、
前へ
次へ
全53ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング