、恰も原始民族が宗教に求めているものと非常に相通ずるところがある。今日一般の信仰が衰えて芸術が神に変ったということはいい得ないが、古代に於ける宗教というものの精神と近代に於ける芸術というものの精神とは相通ずるものがある。近代に於ける芸術理論というものから、古代の人が宗教的祭典のなかに求めていた一つの集団としての喜び、悦楽、そういうものが今日どういう形で残っているかということを考えますと、古代の祭典のなかに生れた芸術というものが、今日その形を段々変えておりますが、芸術の精神ということに就いては少しも変っていない。そこで、嘗て古代の民族が神に祈った如く、今日の人間は心の中に秘めた一つの祈願というものを何によって満たしているか。勿論、お寺詣りをする人、或は教会に通う人といろいろあるでしょうが、しかし古代に於てはみられなかった「芸術」というものを自分の生活の一つのよりどころとする、云いかえると、精神的な慰安、精神的な糧とすることは、丁度古代の民族が神に祈って自分の心を慰め、自分の心に何か力を与えられようとしたことと実にその状態が一致しています。
今日では、この芸術の形態がまた昔と違ってきて、個人個人でその芸術を鑑賞し、娯しむという、そういう芸術の形態が非常に発達しました。例えば、文学でも一人で以て本を読むということが先ず普通です。音楽でも例えばレコードをかけるとか或はラジオであるとか、どうかすると自分の部屋で自分だけで娯しむということが、芸術を楽しむ娯しみ方に今日ではなっております。そういう芸術の形が現在は発達しておりますけれども、しかし、これは近代に於てそういう形に発達したのであって、元来文学でさえも、昔は大勢が同時に娯しむという形で発表されていた。つまり、物語の作者は大勢の聴き手を前にしてその物語を自分で語った。詩人は自分の作った詩を大勢の聴き手の前で朗誦した。場合によっては音楽の伴奏をつけることもある。美術なども同様です。昔は個人の住宅の室内を飾る美術品も勿論皆無ではありませんけれども、多くは公衆の寄り集る所、或は公衆の眼にふれる場所を装飾する為の美術品というものが第一位を占めていた。ところが次第に美術というものは、建築を除いて、多くは個人的にそれを娯しむということに今日ではなってきました。
ところが、演劇だけはあくまでも集団としてこれを鑑賞する形のまま残されてい
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