ることなので、その点を忘れた所謂俳優とはなんぞやという問題への回答は殆どなんら価値はない。少くとも私の話を通じて、その原則を頭においていただきたい。そうして初めて、現在の演劇の問題、現在の俳優の問題にふれて行くことができ、そこに初めてみなさんの立派な態度というものが生れてくるわけです。
2 俳優の天職
次は俳優の天職という問題です。
先程いいましたように、俳優というのはもともと人類のお祭というものを司る一つの神聖な職業であったのです。最初の精神はそういうものでありましたが、次第に社会の移り変り、人間の所謂智慧の発達というようなことにつれて、世の中の仕事がいろいろ複雑化して、そこに分業が行われるようになって、俳優が所謂神を祭る仕事と段々に分れてきた。つまり神主とか司祭とか或は僧侶とかいうものと離れて、俳優というものが分業になって来たわけです。
分業になると、そこから俳優がかつては神を祭る職業であったということが段々忘れられて来て、反動としてもっとも人間的な姿として俳優が神の祭壇から遠ざかったのです。その神の祭壇から遠ざかるということはいわゆる信仰を失うということではなくて、つまり職業として宗教に対立する立場に立った。最初は神を祭る場合に、そこの行事として行われた演劇というものが、結局宗教から排撃される、宗教そのものから非難される、つまり宗教の敵であるかの如く見做された時代が、過去の歴史に於て屡々あります。ヨーロッパでは十六世紀にそういう傾向が始っている。一方に於て十六世紀には寺院を劇場として芝居が演じられたことがあるのに、それとさほど隔っていない時代に、寺院から全く演劇が排斥されたことが事実あります。日本の芝居の歴史を考えて見てもやはりそうなので、所謂出雲の於国が神社の巫女であって、しかも、その神社の祭礼の行事として、京都で日本最初といわれる歌舞伎を――今日とまるで形は違いますけれども――やった。そこには神社との密接な関係があったのでありますが、次第に徳川時代になって、歌舞伎芝居というものが全くそういう宗教とは縁のないものになってきた。そういう時代は芝居というものについて全くその本来の姿というものが忘れられている時代だったと私は思う。
これを新しい言葉で、新しい時代にあてはめて、芝居というものを考えてみると、今日一般の人達が芸術に求めているものは
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