出も無意義に終るであらう。
 日本に例を取れば、同じ旧劇と呼ばれるもののうちでも、既に岡本綺堂氏の作品になると、その人物の心理は余程近代的複雑さを示して来てをり、それが菊池寛氏のものになると、更に性格的の深さが加はり、山本有三氏のあるものに至つてはやや哲学的意味さへ加はつて来てゐる。かうなると、もう、由良之助や鼠小僧や政岡などを演ずる場合と、根本的に俳優の「仕事」が違つて来るのである。
 これを押し進めて行けば、近代人の生活を取扱つた戯曲、殊に知識階級の人物を配した戯曲になると、もう、その人物と同じ生活(内面的)を生活してゐなければ――少くとも生活し得なければ――その人物の組立はできないことになる。第一、その人物の「考へ」てゐることが解り、その人物の感じてゐることを察し、その人物の苦悶、喜悦、希望、不満、それらのものがはつきり自分の「頭」の中に映つて来るためには、先天的の「悟性」による外はなく、而もその上少くともその人物と同じ程度の教養――厳密に云へば、その作者と同じ程度の教養――を有つてゐなければならないのである。
「知力」といひ、「理解力」といひ、「悟性」といひ、ここではほぼ同じ意
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