かといふことである。言ひ換へれば、人物の解釈である。
 そこで俳優の素質は、「感性」よりも「知力」に重きをおかなければならなくなつたのである。しかも、「知力」さへあれば「感性」はどうでもいいのではなく、往時の俳優に必要であつただけ「感性」が必要であることに変りはなく、その上、昔の俳優には、さほど必要でなかつた「知力」が、今度は、何よりも必要だといふことになる。
 例へば、近松や南北や黙阿弥の中の人物は、それほど複雑な性格をもつてはゐないのみならず、その心理も決して近代人ほどの深さはない。従つて、一と通りの「頭」をもつてゐれば、その人物を正しく「頭の中に描く」ことは困難でなく、従つて「知性」の点でかなり平凡な、時とすると「人並み以下」の俳優が、案外「器用に」その役を演じ活かしてゐる場合があるのである。
 これに反して、西洋劇で云へばシェイクスピイヤのある人物、例へばハムレットの如きは、最早「感性」だけでは眼の前に浮んで来ない。(この場合、勿論西洋の役者について云つてゐるのである)ハムレットの性格、心理は、特殊の俳優のみがよくこれを「理解」し得るものであつて、この「理解」なしには如何なる演
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