巴里で観たイプセン劇
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)質朴《ぢみ》な
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 私は夙に近代劇の研究はイプセンから始めなければならぬと教えられてゐた。然るに私は、日本を離れるまで、二篇の邦訳を手にしただけである。巴里に来て、近所の貸本屋から、プロゾオルといふ人の仏訳を借りて来て、毎日読み耽つた。あれでたしかイプセンの作品は全部読んだ筈である。
 これから実際の舞台を観なければならぬ。それには幸ひルュニェ・ボオのメエゾン・ド・ルウヴル(創作の家)がある。スカンヂナヴイヤの戯曲を殆ど専門にと云つてもいいぐらゐ演つてゐる劇場である、私は先づそこで「人形の家」を観た。
 スュザンヌ・デプレ夫人のノラは私の空想とは似てもつかないものだつた。私の空想とはどんなものかといふと、それは、ただ戯曲を読んだ時の印象からのみ得た空想ではなくて、たしか松井須磨子の扮したノラの記憶がその土台になつてゐたのである。
 デプレ夫人は、これこそ女優には珍しい質朴《ぢみ》な顔立で、その上、これはまた女とも思へぬほどガッシリしたからだつきの……やはり、女である。名優が常にもつてゐるあの深い眼ざしが、彼女の特殊な才能を物語つてはゐるがどう見ても「小鳥」の柄ではない。
 それがどうです、夫ヘルメルの傍に心持首をかしげて立つた彼女は、正しく「彼の人形」であり、子供と戯れながら机の下から首をつき出した彼女は、たとへその睫に一滴の涙が光つてゐなくつても、それはたしかに「悩みが美しくした女」を描き出してゐたのです。
 私は此の芝居を観て、多くの批評家が云ふところの「目覚めたる婦人」について、何等問題とすべきものを発見しなかつたかはりに、却つて、此処にこそ「永遠の女性」そのものの姿を見た。これは皮肉でもなんでもなく此の劇を佛蘭西流に演出すれば、さうするのが自然のやうに思はれた。
 一体にイプセンの戯曲は、多く悲劇的外貌を備へた喜劇であり、その喜劇的要素は、主要人物を特種な性格なるが故に英雄化する常識的解釈によつて完全に葬り去られる場合が多い。
 私がコメディイ・フランセエズで観た「人民の敵」も、その意味で、最も此の戯曲の喜劇的特質を活かしてゐたと記憶する。主人公たるストックマンには、私の好きなフェロオディイが扮した。これはまたお誂へ向きな温泉場医者である。頭が大きくて、唇が
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