お引合せする光栄を得ましたについて、何よりもうれしいことは、両先生のさういふさつぱりしたお気持と、この村の村長さんはじめ、村民の方々の、かういふ仕事に対する十分な、ご理解とが、ぴつたり一致して、今後この村から病人を一人も出さないやうにといふ望みが、今、こゝに満ちてゐる春の日射しとともにお互の胸に湧き起つてゐるのがはつきり感じられることであります」
 その日の暮れ方ちかく、一行は山を降つた。
「この遠足は、しかし、ちょつとしたもんだつたね」と、B博士は感慨深げに云つた。
「ちよつとしたもんだ。ところで新聞に出す手は絶対にないな、医師会の半分が動き出すまでは……」と、C先生は応じた。

     次男

 鳥居朝吉君は弟の手紙を繰返して読んだ。
 弟は郷里の中学を終へ、高等学校の試験に通つてゐながら、進んで現役志願をして満洲へ渡り、守備隊勤務に服してゐる間に、病を得て内地の病院へ還され、そこで除隊になつて現在は父母の膝下で静養をつゞけてゐるのである。
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――からだの方はだいぶんよくなりました。兄さんが結婚されたことをハルビンで聞いた時、僕はこれでもう安心だといふ気がしました。それがどういふ意味か、兄さんにわかりますか。僕は家のことを考へたのです。北満の空は暗雲に覆はれてゐました。僕はいつでも死ぬ覚悟でゐたのに、やつぱり、家を出てゐられる兄さんのことが気がかりでした。ところで、今、かうして家に帰り、少し気持も落ちついて来て、自分の将来のことをあれこれと思ふのですけれども、これは実に不思議な変りやうです。ご承知のやうに、僕の宿望は博物研究です。肩書で云ふならば理学博士です。高校、大学といふ課程は当然踏まなければならぬと思ひ込んでゐたのです。それが、一旦、生死の境を越えて来た僕にとつては、まつたく他愛ない妄想に過ぎなくなりました。僕は、この郷土を離れたくありません。この古びた陰鬱な屋敷が、僕の魂をまだ育てゝくれるといふ気がするのです。そこには、僕の志と一体になり得る光明があることを、やつと発見したのです。家が百姓でないことは残念ですが、土地の人々の表情は僕に冷やかでないばかりでなく、僕の態度ひとつで、それが熱烈に燃えあがる何ものかを包んでゐることがわかりました。僕はおやぢの後をついで竹細工をやります。そして、段々に動植物の本を読み、実地の観察を丹念にやります。さういふ努力の結果が中央の学界を刺戟することになればもつけの幸ひです。結局は、僕の学問に対する情熱が、郷土と家とをはなれてあるのではなく、寧ろ、それへの愛着と献身とによつて一層確かなものになるといふ信念に到達したのです。
そこで、僕は兄さんにご相談したいのです。男の兄弟は僕たち二人ですから、本来なら兄さんが家に留まるべきだと思ふのですが、それは恐らく無理でせう。兄さんは恵まれた才能に従つて東京で好きなことをやつて下さい。日本の経済界の立て直しをやつて下さい。僕は、幸ひ次男として、誰からも強ひられず、不本意ながらといふのでなく、自分の興味と本性の命ずるまゝに、兄さんに代つて家を護ります。わが××町のために一生を捧げます。どうか、僕のこの願ひをそのまゝ信じて下さい。
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 鳥居朝吉君は、読み終つた手紙を膝の上に置き、「畜生ッ」と肚のなかで叫びながら、ぐつと胸をつまらせた。

     禁酒

 浦野今市君は八歳の時から酒の味を覚え、三十五歳の今日、酒さへあれば何もいらぬといふほどの酒好きになつてしまつた。
 八歳の時から酒の味を覚えたといふのは、彼が酔へば必ず誇張を交へて語る昔話によると、父親が将来酒の飲めぬやうな男になつてはいかんと、小学校へ上つた年から彼に晩酌の相手をさせたといふ。従つて、十一歳にして既に管《くだ》を捲いたほどの神童で、と、これが人を笑はせる「落ち」なのである。
 浦野今市君は、むろん今では一家のあるじである。貞淑な細君と、可愛らしい二人の子供とを、月九十何円かの月給で養つてゐる。
 生活は決して楽ではない。その上、最近は債券を買つたり、貯金をふやしたりするために、消費の節約が絶対に必要とあつて、細君に気を揉ませるまでもなく、当人自ら進んで、酒代といふものを予算からきれいに削除してしまつた。
 予算はきれいに削除したけれども、そこにはまだ余裕があつて、たまには好い機嫌で家に帰ることもある。懐をいためないで酔ふ方法がなくもなかつたのである。
 ある日、浦野今市君は、しみじみとした調子で細君に話しかけた。
「おれは不思議なことを発見したんだが、同じ酒でも、近頃のやうに、只の酒ばかり飲んでると、どうも人間がだんだんひねくれて来るやうな気がする」
「それごらんなさい」
 と、細君は、憂はしげに眉を寄せる。
「だから、どうしたらいゝ
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