んだ」
と、浦野今市君は、とぼける。
「すつかりやめておしまひになれないなら、家の方でなんとかしますわ」
夫の永年の習慣を、しかも、それほど害もないと思はれる楽しみを、こゝで急に奪つてしまふ気にはどうしてもなれないのが、細君としての真情であつた。
しかし、細君にさう出られると、浦野今市君も男の意地を立てねばならぬ。
「なんとかするつたつて、どうせお前一人に苦労させるだけのことだ。よし、断然やめる。やめる、やめる、なんと云つてもやめてみせる」
非常な決意である。あまりその声が大きかつたので、隣の部屋で勉強してゐた長女の国民学校二年生が、「お父ちやん、なにやめるの?」と、唐紙を開けて訊きに来た。
浦野今市君は、無理に微笑を浮べようとしたが、頬がつつ張つていふことをきかない。
細君は、夫の顔をちらと見て急いで眼を伏せた。
そして、眼を伏せたまゝ、娘の方へ、少しうつろな声で、云つた。
「あとで教へてあげるから、さ、早く勉強しておしまひ」
それ以来、もうかれこれ二ヶ月になるが、浦野今市君は、文字通り禁酒を実行して来た。時と場所と相手に応じて、或は胃潰瘍と瞞し、或は一滴も飲めぬと白を切り、或は家庭以外ではやらぬと、妙に威張つてみせた。
先づ第一に、会社の同僚が黙つてはゐなかつた。殊にそれまでの飲み仲間は、やゝ敵意をさへ交へた調子で、早く生命保険にはいれなどとからかつた。
浦野今市君は、別にさういふ仲間を怖れはしなかつた。禁酒の理由はどうにでもつけられるが、どんな理由よりも堂々とした理由が実際はある。それをわざ/\吹聴せぬところに、内心、浦野今市君の矜りがあつた。
そして、これまでは、どれほどのものともわからなかつた自分の意志の力を、こゝで試してゐるのだといふ、一種の満足も手伝つて浦野今市君は、むしろ、仲間の無反省を憐れみたいくらゐであつた。
よんどころない会合の席で、皮肉な若手と頑固な上役に盃を押しつけられ、進退|谷《きは》まつて、彼は、粛然と膝を正し、
「折角ですが、実は、思ふところあつて、酒を断ちました。どうかあしからず」
と、空の盃を乾す真似をしてみせた。
一座はどつと笑ひこけた。浦野今市君の台詞《せりふ》としては、それほど奇想天外なのである。
夜おそく帰る夫の、ぱつたりと酒臭い息を嗅がせぬやうになつたその変りやうを、細君は細君で、いくぶん気味わるくさへ思つた。
しかし、なんで、その事にわざわざ触れる必要があらう。
細君は、それが初めからのことのやうに、良いとも、悪いともいはなかつた。たゞ、目立つて無口になる夫に、一言でも多く喋らせる工夫をした。家の中の火が消える思ひであつた。
日曜日の午後である。
浦野今市君は、庭の小さな花壇を野菜畑に掘り返すことを思ひたち、長女の二年生に二十日大根の種を袋のまゝ持たせ、
「まだ袋を開けちやいかんよ。ちやんと畝《うね》を作つてからだよ。かういふ風に塊りのないやうに土をならしてからでないとね」
お隣で借りた本物の鍬を、浦野今市君は、娘の前で、さも玄人らしく、軽々と振つた。
そこへ、珍しく、旧友の遠山三郎が訪ねて来た。
種はあとで蒔くことにして、浦野今市君は、ひとまづ手を洗つて座敷にあがつた。
遠山三郎は、別に用事があるわけではなかつた。たゞ、最近南方から得た便りなどを二、三紹介し、誰彼の幸、不幸について噂をし、総理大臣の健康を案じ、そして、最後に、酒を特別に飲ませる家を見つけたから、
「是非久しぶりに君を誘はうと思つてね」
と、なにも知らぬ風で、話をそこへもつて行つた。
ちやうど茶を入れかへに来た細君が、じつと息を凝らした。
浦野今市君は、ほとんど泣き笑ひとも云ふべき表情で、旧友遠山三郎の口元を見つめてゐた。
「ほんとだよ。嘘だと思ふなら来てみろよ」
「誰も嘘だなんて思やしないよ。たゞ、かう云ふと、君の方が嘘だと思ふかも知れないが、僕、近頃酒をやめたんだ」
「嘘つけ」
「嘘だと思ふなら……」
と、までは云つたが、証拠とてはなにもない。
「本当ですか、奥さん?」
「はあ」
細君はさう答へたが、ふと、それだけではなんとなく夫にすまぬ気がして、
「さうらしうございますわ」
と、附け足した。
「さうか。そいつはどうも……」
と、ひどく悄げ返る旧友遠山三郎の様子に、浦野今市君は、こゝぞと勇をふるひ「僕なんぞは、君、これくらゐのことでもしなけれや銃後の御奉公にはならんよ」と云ひかけて、それは胸の中へぐつと押し返した。
「しかし、弱つたな、部屋をとつて来たんだよ。それぢや、飯だけつき合へよ。酒はどうでもいゝから……」
数刻、押し問答の末、浦野今市君は、ともかく友情の拒むべからざるを知り、酒の方は一滴も飲まぬからと念を押して、夕暮の我が家を出た。
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