さて、夜風はもうさほど寒くはないけれども、更けるに従つて、留守をする細君は、空の荒模様が気になつた。
 子供たちを寝床へ追ひ込んでから、細君は外の跫音に耳を澄まし澄まし、近頃、隣組で回読することになつた婦人雑誌の頁を静かに繰つてゐた。
 九時が鳴り、十時が打つた。そして、間もなく十一時といふ時分、表の格子が開いて、ドタドタと踏みしめるやうな靴音がすると同時に、
「約束をするまでは断じて帰さん、帰すもんか」
 玄関の上り口に肩を組み合つたまゝ坐り込んでゐる男二人の後姿を、細君は、電気もつけずに、茫然と見据ゑた。
「さあ、これから決して飲まんと誓へ。旧友の切なる忠告を聴け。貴公は酒ぐらひ思ひ切れんか。貴公はそんな男ぢやなからう……」
「わかつたよ、もうその話はわかつた」
「なにがわかつた? 酒を、今日限りやめろと云ふんだ」
「よし、よし、だから、もう眠ろよ」

 細君は、たまり兼ねて、電燈のスヰッチをひねつた。
 正体もなく酩酊した浦野今市君と、その腕に、これまたおとなしく首を抱へさせた旧友遠山三郎とはその時、同時に後ろを振り返つた。
「奥さん、どうも遅くなつて……」
「そんなこた、かまはん。こら、おれは酔つとるから云ふんぢやないぞ」
 と、浦野今市君は、今度は、遠山三郎の首をはなして、正面に向き直つた。
 細君が何か云はうとすると、それを強く手で制して、
「今夜は、なるほど御馳走になつた。おれが飲まんていふ酒を、貴公は言葉巧みにおれを瞞して、たうとう、好い気持にさせちめやがつた。いや、好い気持になつたのは、これや昔のおれだ。いゝか。今のおれは、貴公にわかるまいが、苦いもんで胸がいつぱいなんだ」
「ちよつと、あなた。もう好い加減になすつたら……。遠山さんがご迷惑ですわ」
「いや、いや」
 と、遠山三郎は、頭に手をのせて、
「浦野はすつかり弱くなりましたな」
「余計なことを云ふな。弱いのはお前ぢやないか。人にばかり飲ませて、自分はなんだ。おれは、貴公が心からすゝめてくれる酒を断りかねた。いよいよこれが最後だと思つて、肚をきめて飲んだ。それがどうして悪い。友情は何ものにも代へ難いさ。だから、今度はおれの云ふことを聴け。酒をやめろ。理窟はいゝ。黙つて飲むな。さあ、おれに誓へ、おれの女房に誓へ。ハヽヽヽ明日から酒はアングロサクソンだと、あの冬空の星に誓へ……」
 そこで、浦野今市君は、息を切らして、あふむけに、ごろりと寝ころんだ。
 遠山三郎は、すつかり酔ひを奪はれたかたちで、挨拶もそこそこ引き上げた。
 夫の服を脱がせ、床に就かせる細君の手並は鮮かなものだつた。それは、張合のあることのやうでもあつた。却つて、平生よりもいそいそとしてゐるかのやうにみえた。
 しかし、浦野今市君は、細君に一と言も口を利かうとしなかつた。酔ひ方が今までとまるで違つてゐた。鼾までどこか淋しさうであつた。
 細君は、その淋しさを、いろいろに考へた。そして、なかなか寝つかれなかつた。
 翌朝、浦野今市君は、子供たちと一緒に眼をさまし、元気よく床から跳ね起き、庭へ出てラジオ体操をした。
 細君は、チャブ台を拭きながら、さう云ふ夫の方へ軽く笑ひかけた。浦野今市君は笑はなかつた。が、急に、長女の名を呼んで、
「さあ、二十日大根の種を持つといで」
 朝の陽が、黒々とした土の上に落ちてゐた。



底本:「岸田國士全集26」岩波書店
   1991(平成3)年10月8日発行
初出:「毎日新聞」
   1943(昭和18)年3月20日〜30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年12月11日作成
2005年10月27日修正
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