の如く、作家として舞台に冷淡な顔を向けることも、日本に於ては、再考の余地があると思ふ。
 僕たちは「現在の劇場のために」戯曲を書いてゐないことは事実だが、これは、まだまだ「近代劇の行き詰りに悩んでゐる」からではないし、「舞台と戯曲とは別物」だからでもないのである。
 僕は第一に、日本の新劇の現状、歌舞伎新派の運命を考へて、今日まで一人も現はれてはゐないが、いつかは現はれるであらう俳優――西洋にはその例に乏しくないところの――と、その達し得る表現能力を相当に信じてゐる。この表現能力に対して、われわれ作家は勿論、一般演劇に関心をもつもの、又は、もたうとしないもの、何れも、一応吟味を試みるべき時代が来てゐるのである。

 如何なる文化部門に於てもさうだが、今日の日本に生れ、何か一つの仕事をしようと思へば、先づ、このへんのところから始めなければならないのではないか? なかには、もつと先を行く人物もあつていい。若し足許に危険を感じなければ! しかし、誰かが、「もつと以前」に止まり、先へ行つた連中も何れはそこへ一度戻つて来なければならないのである。
 僕は今、日本に於ける演劇の文化的水準といふことを問題にしたい。敏感な読者は、僕を含めて四人の走者が、演劇といふ一般的な観念を提げて、如何にてんでんばらばらな走り方をし、演劇そのものが危く見失はれようとした現象を以て、直ちに、日本現代演劇の混乱を感じられたであらう。演劇は貧困にも悩んでゐる。しかし、それ以上に、幼稚さに参つてゐるのである。われわれの混乱は、そこから来たのである。
 日本の芝居は、歌舞伎でも、新派でも新劇でも、今のままの方向を取つてゐては、誰がどんなに力んでも駄目である。かういふ方向を取らないわけに行かぬ理由もあらうが、それは、芸術と関係のないことで、小林氏の云ふ「劇場の礼節」は、即ち、一般文化水準の平均、統一、高度に比例するのであるから、劇作家の努力だけではどうにもならぬやうなものの、演劇に於ける一つの正しい方向は、常に劇作家がその時代に先駆を勤めることによつて定まるのである。
 真船氏の如きは、実にその先駆者の一人であることを自覚してゐていいので、僕などは、今日では、寧ろ、退いて、演劇のアカデミズム樹立に余生を献ずる決心をしてゐる。自然の順序である。

 西洋近代劇の内幕について、小林氏は僕に意見をもとめるのだが、
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