ゐられるのはどうしたわけか。僕の書くものは別の理由で上演不向きなことを認めるし、まあそれは問題でない。一般について云ふのである。ここで、勢ひ、戯曲の内容の云々に話題が転じさうであるから、それは、ここでは論じないことにします。
小林氏が、日本の近代劇上演からは、「一種どぎつい読書法といふものしか学ばなかつた」と云つてゐるのは、新劇当事者――過去現在を通じて――に与へられた頂門の一針である。
築地小劇場の観客が「劇場に本来あるべき健康な空気」とは無縁であつたことを指摘し、これに対し千田氏は、左翼劇場時代の舞台と観客席の交感を例にあげて反駁してゐる。僕は、このあたり、局外批評の難有味を痛感する次第だが、これは、千田さん、なんといつても、考へなければならない問題ですね。僕は、この問題について、いつか、左翼系の某氏に話しました。――左翼劇見物は芝居を観てゐるのでなく、扮装せる政壇演説を聴きに来るのである。芸術的な感動を味ふのではなく、デマゴオグの熱弁に魅せられてゐたのである。しかも、彼等の多くは、甚だ頼もしくない弥次馬ではなかつたか、と。反対イデオロギイの化身が登場すると、見物はこれを罵倒するなどといふことが、芝居とどんな関係があるでせう? さういふ悲しい役をふられた役者は、僕は、若し彼が芸術家なら、気の毒だと思ふ。これは政治運動の話題にはなるが、演劇運動について語る場合は引合に出して欲しくない話である。現在の新劇の一部でさういふ時代の夢をなほ見つづけてゐることは、作家にとつて、殊に俳優にとつて、非常な損失である。千田さん、これはあなた方の新しい演劇論に対する批評ではありません。日本の現状に即して、あなた方の方法と努力が徒らに多くの犠牲を生み、それが日本の健全な演劇文化の発達を阻害してゐる事実を指摘してゐるのです。
しかし、芝居といふものは、批評家や劇作家の考へてゐるやうな考へ方で、やれるものではない。これは事実だ。つまり、芝居の道で苦労のできる人は、余程、芸術家のうちでも変つた特質をもつてゐる人である。ほかから考へると、どうにもしやうのないことを、ある勘で、なんとかなると信じ得る人である。この勘と、この意欲の強靭さが、劇場人の生命であり、演劇の混沌たる世界に、一条の光明を投げ入れる力である。
小林氏の如く「芝居小屋全体の礼節」に愛想をつかすことはまだ早いし、真船氏
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