方、戯曲の指導性(?)を認めながら、なほかつ、戯曲の「文学性」ならぬ「舞台性」乃至「劇場性」が、社会的条件によつては、戯曲家の創造精神に一つの基準を与へるであらうことを強調してゐるのをみればわかる。
 が、僕は、かういふ問題を、一概に片づけてしまふのはよくないし、また不可能なことだと思ふ。これは、嘗て文壇で小説は散文である、云々が主張され、文学の本道が散文精神の強調に塗りつぶされたあの傾向とよく似てゐると思ふ。勿論、近代文学の歴史的考慮と、現代人の生活感情乃至生活様式を通して、小説のジャンルとしての進化が、散文の純粋化、言ひ換へれば、抒情と雄弁とを排除する結果を生んだのは当然であるが、その結果は今日の純文学行き詰りの声を聞く一つの原因になつたとも解せられる。僕は、純文学が行き詰つたなどとは、考へてゐないものの一人であることをここに特記する。ただ、誰も彼もが、純粋な散文を目指して小説のスタイルを固定させたことは、日本の現代文学をやや単調にしてゐると思ふだけである。
 戯曲もそれに似た運命を辿ることをやがて警戒しなければならなくなるであらう。戯曲は文学ならざるべからずといふ主張は、小説は純粋な散文でなければならぬといふ主張と並んで、近代に於ける眼ざましい二つの運動である。しかし、戯曲は、小説ではないし、まして「散文」ではないのである。小説が、所謂、プロザイックであることに好ましからぬ意味があるとすれば、戯曲も、悪い意味のリテラチュウルであつては困るぐらゐのことは誰でも気がついてゐる筈であるが、今の時代は、往々、そんなことを云ふのは野暮で、危険なのだから実に厄介千万である。真船氏の「戯曲と舞台は別の世界だ」と主張する意図はよくわかるし、それを真船氏ほどの人が云ふのだから面白いのであつて、僕の観るところでは、同氏の作品はあらゆる意味で、甚だ舞台的《ドラマティック》なのである(これが今日の氏の強味だ)。千田氏は、これと観点は違ふが、劇作家の演劇運動への参加を要求し、劇作家が文学へ逃げ込んでゐるから、劇場のレパアトリイが豊富にならぬとこぼされる。文学へ逃げ込む一人と自分をみてはゐないが、僕は千田氏に敢て云ふなら、あなた方は、戯曲に「劇場性」を求めながら、実は甚だしい「非戯曲的リテラチュウル」を舞台に上せ、却つて、文学そのものの中にわれわれが求めてゐる「戯曲性」に案外眼をふさいで
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