僕の観るところでは、西洋の劇作家、乃至、小説家で劇を書いてゐる連中は、どんなに「良心的」であらうと、殆ど悉く、その時代の「劇場」を目当てに仕事をしてゐるし、劇場の方でたまたま受けつけないと、彼等は、例外なく不平を漏らすが、上演の運びになれば、多くの場合自分の好きな俳優の手で満足の出来る程度の舞台を見せてもらへるのである。ルナアルなどは、最も贅沢な作者であつて、たまたまアントワアヌと意見が合はないやうなことはあつたが、世評を気にしさへしなければ、作者としては、無条件にうれしい結果をいくども味はつてゐる。
脚本と舞台との距離は、先づないといつていい例がそんなに稀ではない。その証拠に、脚本はいいが役者がまづいといふやうな批評は、西洋の芝居ではちよつと見当らないのである。それやさうだらう。ルナアルに限らず、芝居を書くと必ず、自分の信用してゐる俳優に一読を乞ふ習慣があるくらゐで、なかには、俳優との合作といつてもいいものが随分ある。アナトオル・フランスのクランクビルの如きは、半分以上ギイトリイが筆を入れたと伝へられてゐる。商業劇場の営利主義とかなんとかいつても、日本のそれとは同日に談ずることはできない。同人雑誌たる「新劇運動」は、その役割を数年後には果すのであつて、日本では、これが永久に続くのである。なぜなら、日本の新劇はいつまでも、「育たない」からである。
そこで、その理由を僕は十年来、根気よく書きつづけた。それを今度本にするから暇があつたら読んで下さい。
映画の話も出たが、今日の西洋映画は、以上述べたやうなわけで、スクリインに現はれる俳優の表現能力が、あるレベルに達してゐるといふだけで、日本の新劇よりも数等「演劇的」であることを指摘するに止めよう。(一九三六・九)
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「文学界 第三巻第十号」
1936(昭和11)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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