さが、精神生活の面で、一種の強味を発揮する場合もある。これは、感覚的に趣味の洗煉といふ形で現れ、頭脳活動に於て速度と飛躍性とが加る。
近代都市の最も惨憺たる現象のひとつは、その住民の大多数が、いはゆる都会人でなく、または都会人になりきらず、しかも、都会人的要求を満たし、満たさしめんとしてゐる状態である。
この現象は、いかなる時代の都市にも起り得るものであらうけれど、嘗ては、何れの都市に於ても、ほゞ確認された都市生活の形態があり、その伝統的様式が無言の権威をもつて異郷的なものを同化したのである。
今日はさうではない。異郷的なものは、寧ろ「新風俗」として迎へられさへもする。それは、そのまゝで都会化しつゝある。これに反撥する何ものもないのである。いづれはハイカラなモンペ姿、粋な国民服も出ようといふものである。
それはそれでいゝ。だが、問題は、この都会に生れ育つ、次代の市民は、その生れ育つた土地に対して、いかなるつながりを過去と未来にもつことができるかである。そこには、たゞ、変るものがあるだけである。動くものがあるだけである。深まるもの、持続するもの、自分を静かに見戍る何ものもない。つまり、全体として自己を包むもの、自分がそのなかにゐて、そこから受け継ぎ、それをまた更に全体のなかで伸して行くといふ何ものもないのである。
つまりそこには、愛すべく誇るべき祖国の姿といふものが何ひとつない。彼らは、たゞ、すべての都会人に共通な弱点を背負ひ、強味を強味として発揮し得ない国民となるおそれが多分にある。
都会文化の高揚は、もちろん、技術的な面に主として注がれなければならぬ。技術は知識と感覚とを基礎とするが、また、道徳とも無縁ではない。例へば公衆道徳の問題にしても、かの消費面に見られる諸設備の倫理的意義を考へるだけでなく、都市を構成する諸機能のひとつびとつについて、それが市民生活を混乱に陥れるか、秩序に導くかを一応吟味してみるがよい。混乱は市民おのおのゝ社会的訓練によつても幾分は救はれるが、なによりも、それらの混乱を生ぜしめない、都市行政の「技術」を必要とする。混乱はすなはち頽廃から野蛮につながる。都会の非文化性は常に国民道徳の脅威である。
二
以上の観点から、一般都市文化の危機を踏み越へるために、若干の提言を試みよう。
先づ、形体として都市の要素をなす
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