田巻安里のコーヒー
岸田國士
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)安里《あんり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)田|巻《まき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)し[#「し」に傍点]好に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)どこ/\の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
田|巻《まき》安里《あんり》は、甚だコーヒーをたしなんでゐた。彼は、朝昼晩、家にあつても外にあつても、機会を選ばずコーヒーを飲んだ。友人と喫茶店にはいり、「君はなに?」と問はれゝば、「無論コーヒーさ」と空うそぶき、コーヒーさへ飲んでゐれば、飯なんか食はなくてもいいと放言した。
だれも、彼がコーヒーをたしなむことに偽りがあるとは思はなかつた。たゞ、敏感な友人は、彼がコーヒーをたしなむことは、寧ろ「コーヒーをたしなむこと」をたしなむに近いと思つてゐた。
そこで問題になるのは、コーヒーそのものがある人のし[#「し」に傍点]好に適ふ理由は明瞭であるが、「コーヒーをたしなむこと」が、何故にし[#「し」に傍点]好愛着の目的物となり得るかである。
殊に、田巻安里の場合、不思議に思はれる現象は、コーヒーをたしなむかの如く見えて、その実、コーヒーそのものに対する感覚を多分に失つてゐるらしいことである。たゞそればかりではない。まれには、コーヒーを飲むことが、一種の苦痛になつてゐるとしか思はれないことである
少しうがつた観方をすれば、彼は、コーヒーを味はふ時よりも、「おれはコーヒーが好きだ」と思ひ、かつ、人からさう思はれることの方が楽しいのである。それゆゑに彼は、コーヒーを飲む時そのコーヒーの味よりも、それを味はふ自分自身が興味の対象であり、かくまでコーヒーが好きであるといふ自分を、半ば賛美し、半ば憐みつつ、かの黒かつ色の液体を唇に近づけるのである。
彼は、さういふ時、きまつて、ある幻影を頭に描く。「コーヒーばかり飲んでゐた天才」オノレ・ド・バルザツクの幻影である。
彼は、自分のあらゆる姿態《ポーズ》あうちで、机に片ひぢ[#「ひぢ」に傍点]をのせ、眼を青空の一角に注ぎ、その眼の高さに薄手のコーヒー茶わん[#「わん」に傍点]を差あげてゐる瞬間がもつとも美しく、もつとも似合はしいと思つてゐた。
一方、彼のコーヒー惑溺は、いさゝか「通」の領域に踏み込んでゐた。彼は東京では、どこ/\のコーヒーが一寸飲めるといひ、自ら書斎の一隅にコーヒーひきとフイルトレの道具を用意し、「これはこの間フランスから取寄せたコルスレだ」などと、不眠症の客をへき[#「へき」に傍点]易させる奇癖をもつてゐた。ある友人が、試みに、「君は、小石川のどこそこに、近頃出来たカフエー・ド・レトワルつていふのを知つてるか。コーヒーはとても自慢ださうだ」といへば、彼はすかさず、「うん、あれや、大したもんぢやない。第一あんな熱いのを、そのままだすつていふ法はない」とこきおろした。ところがそんなカフエーは、その友人も聞いたことがなかつたのである。
しかしながら、彼田巻安里は、決してコーヒーばかりを好んではゐなかつた。彼はまた、文学を愛してゐた。彼は、泰西の近代文学史に通じ、現代日本の文壇を軽べつし、しかも軽べつしつゝ、その文壇の情勢に明るく、月々の雑誌に発表される数多くの作品を読み、二三、大家の門をたゝき、若干の新進作家と交遊関係を結び、もちろん、自らも小説と戯曲を書き、同志を語らつてパンフレツトを刊行し、原稿用紙に姓名を刷り込ませ、文学故に親戚と義絶するに至つたと心得、「牛肉が硬い」といふ時、「人生は憂うつ[#「うつ」に傍点]なり」の表情を浮べるのである。
二
たゞ、彼は、文学者であることを鼻にかけるほど文学のわからない男ではない。まして、名利を目的に文筆の道を志すほど徹底的現実主義者でもない。彼は、心底から文学を愛し、「文学のために死ねば本望だ」と考へ、文学とコーヒー以外に快楽の街を求めようとしない男である。それ故、彼の生活は豊かでなく、それをまた苦にもせず、ひけらかしもしない。その点、友人たちは挙つて感歎の声を漏らしてゐる。
この田巻安里は、好んでいはゆる「私小説」を書くのであるが、それも、かの既に今日では流行おくれと称せられる「心境小説」の型に属するものではなく、熱烈な意気と、奔放な筆致とをもつて、一つの理想主義的内容を盛ることに努力してゐる。
そこで、友人の一人は、独特の懐疑的微笑を浮べて彼に問ふのである。
――おい、田巻、君は、君の主義のために文学を棄てなければならない時、一体、どうするんだ?
――主義のために文学を棄てる? そんなこ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング