とは考へられない。おれの主義と、おれの文学とは、所せん同じものだ。おれの文学は、この主義によらなければ完全な成長は遂げ得られないし、この主義を押し通す上から、おれは文学以外に道はないのだ。
 ――それはわかつてゐる。しかし、君のじゆん[#「じゆん」に傍点]奉してゐる主義は、君一人の都合を考へてはくれないぞ。
 ――おれは自分一人のために文学をやつてゐるんではない。
 ――それもよからう。しかし、君の文学が、それほど、君の主義のために必要だと思ふか?
 ――さういふ疑ひを起すことが既におれたちの主義に反してゐるんだ。
 ――さうか。

 田巻安里は、この時この友人から奇怪な皮肉を浴せかけられた。
 ――「田巻のコーヒー的文学」といふ言葉が友人間を風び[#「び」に傍点]した。
 この友人に従へば、田巻安里は文学そのものを愛する以上に、「文学を愛すること」を愛し、引いて文学を愛する自分自身を慈しむのあまり、文学の本体を見失はうとしてゐるといふのである。
 この皮肉は、たしかに、田巻安里をらうばい[#「らうばい」に傍点]させた。彼は、一晩寝ずに頭をひねつた後、その友人に手紙を書いた。
 ――文学を愛さないものにとつて、文学といふものは存在しない。従つて、文学を愛することが、つまり文士なのだ。君の批評は、あれは、愚劣なき[#「き」に傍点]弁だ!……
 彼は、コーヒーの問題に触れることを避けた。コーヒーなんか、文学の前では、取るに足らぬ「小事」である……

 田巻安里は、次第にコーヒーを飲まなくなつた。彼は、しみじみコーヒーが飲みたいと思ふ時でも人前ではコーヒーを飲まないやうにした。
 ――この頃、コーヒー飲まないのか?
 ――うん、あんまり飲みたくなくなつた。
 ――その調子で、文学も嫌ひになるといゝんだ。
 ――待つてくれ。おれが文学の好きなことだけは信じてもらひたい。いや、君たちに信じてもらはなくつてもいゝ。おれはおれだけで好きならいゝんだ。おれには、君たちの真似はできない。おれの眼から見ると、君たちは、文学を愛してゐるとはいへない。文学をもてあそんでゐるのだ。
 彼は涙を流すまいと、鼻のあなをいつぱいにひろげた。

       三

 友人たちは、ひそかに語り合つた。
 ――田巻は、やつぱり、文学が好きなんだよ。「文学を愛すること」を愛するなんて批評は少し酷だ。
 ――なるほど、「文学を愛する事」を愛する奴のなかには、おれの判断によると、田巻がコーヒーを好むといふやうに、一種の現代的迷信乃至は流行心理に囚はれ、単純な見栄と自己陶酔を含む、もつともユウモラスな稚気の持主もあるにはあるが、彼の場合は、必ずしも、さうとばかりはいへないよ。
 ――なに、それだけさ。その証拠に、あいつの書くものは、こと/″\く、自分が如何に主義のために献身的であり、文学のために忠実であるかを吹聴したものばかりぢやないか。あんな作品は、自家広告以外、何の役に立つと思ふ?
 ――自家広告とはいへないさ。さういふ邪念はないよ。
 ――そんなら、自己紹介でもいい。「おれはかういふものだ」といふことを書くだけなら、昔から、自然主義の亜流がやつて来たことだ。もつと謙そんな態度でやつて来たことだ。
 ――謙そんでもなからう。
 ――兎に角あの男を、さういふ風に見るのは勝手だが、あゝいふ傾向の文学を文学と呼ぶ以上、あれはやつぱり、一種の理想主義的文学と見るべきだらう。
 ――いや、おれがいひたいのは、そんなイズムについてぢやないんだ。あの男についてなんだ。人間としての田巻安里は、今日の文学者の一つの型を代表してゐる、この型は、必ずしも理想主義者の中にばかりあるのではない。おい野添、お前も、幾分、この部類だぞ!
 ――馬鹿いへ!

 さて、野添と呼ばれた男は、真青な顔をして起ち上つた。彼は、さつきからウイスキイのコツプを次ぎ次ぎに注文し、女給が、驚いたやうな眼をして、「まだ召上るの?」と訊ねても、黙つて、空になつたコツプの底を皿にコツ/\と当てゝゐた。彼は飲みはじめると、バアを五六軒歩かないと気がすまぬ男だとされてゐる。もつと正確にいへば、さうしないと、自分で気がすまぬと信じてゐる。
 ――そんなら、お前だつて「女を愛すること」を愛する部類の人間だ。大きなことをいふな!
 主知的感傷派と自称する彼は、そこで、人間が今日、総てのものを、直接に愛するだけで満足しなくなつた傾向について論じはじめた。愛書癖を、その好適例として持ちだした。われわれが、何々を愛するといふ態度のなかに、田巻安里のコーヒーにおけるが如きものを見ない場合があるかと喝破した。旧くは骨とう[#「とう」に傍点]にしろ、盆栽にしろ、釣りにしろ、新しきは、登山にしろ、銀ブラにしろ、西洋煙草にしろ、趣味を離れては技術
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