ゐるのです。何処の山でとれた蕨《わらび》だとか、裏に生《な》つた柿だとか、郷里の地酒だとか、どこ名産の羊羹だとか、誰それに焼かせた壺だとか、娘の縫つたチヤンチヤンコだとか、まあさういふ類ひの品物ならば、やつても貰つても、そこには少しの無理もなく、友愛の息吹を運んで物が温く笑ひます。「手土産」の懐しさは、物の金銭的価値でないことはもちろん、それを差出す人の眼差しと一と言の説明であります。時によると、手紙をつけて使に持たせてやります。手紙は名文に越したことはありません。返礼に俳句一筆となると、それはもう凝つたものです。そんな真似まではしなくても、日本人の贈物とはさういふものだといふ、その精神をもう一度取戻したいのです。
私の考へでは、近来、お義理だの、附け届けだのと云つて、むやみに贈答がふえ、贈答品売場などといふ大それた札まで出すところがあり、それのみならず、進物用の商品切手といふ不都合な代物まで登場したのには、ひとつの理由があると思ひます。いつたいどうしたわけかと云へば、それは、日本人のやり好き貰ひ好きにつけ込んだ営利主義の策略ではありませうが、それよりも、第一に、現代の日本人は、自分
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