神的な方面にも及び、言語動作の上でも、一体に「自然」であるといふことが、最も美しいとされるのであります。これは、必ずしも日本だけでなく、万事に技巧が目立つといふことは、それだけ未熟な証拠、または軽薄な態度として、何処でも心あるものは疎んずるのでありますが、特にわれわれ日本人、その中でもわけて民衆の間では「わざとらしさ」といふことが極度に排斥されるのであります。
これは一面、たしかに、生活態度としての、潔癖と聡明とを語るものでありますが、また一面、その程度を越え、これに囚はれることになると、そこに本末顛倒の現象を生じ、「自然」を衒ふ「不自然さ」に陥ることがあるのであります。ある種の日本人は、この「不自然さ」の故に屡々思はぬ誤解を受け、反感を招き、失策を演じてゐます。
某高官が外国を訪問した際、公式の賓客とあつて、首府の市民は沿道を埋めて歓呼の声をあげたのですが、某氏は、幌を外した自動車の中から、帽子を片手に、軽い会釈を送りました。それが問題になつたのです。なぜなら、市民の期待に反して、某氏の表情は「毎日こんな歓迎は受けてゐる」と云はぬばかりの、平然たる表情だつたからです。
もちろん、日本人は西洋人のやうなお世辞たつぷりの表情は不得手であります。しかしながら、某氏のその時の気持は、察するに、大国の高官として、「あまりうれしさうな顔をしては沽券に拘るから、なるべく、「自然」に、普段のとほりの態度で市民の歓迎に応へよう」といふやうなところではなかつたでせうか。尤もな配慮とも思はれますが、もう既に、そこに誤算があつたので、「自然」にならうとして「不自然」にならざるを得ぬ微妙な心理の狂ひを勘定に入れなかつたからです。
まことに、「自然」に立派であるといふことほど、普通の人間にとつて大きな修練を要することはありません。喜怒哀楽を顔に現さずとする日本古来の「嗜み」も、その真の精神は、自己鍛錬にあるのだといふことを、こゝでも深く感じさせられます。
最も素朴な民衆のなかに、最も自然にしてしかも立派な態度を屡々見かけるのは、いはゆる少しの衒《てら》ひもなく、分に安んじて故ら己を屈せざる「自然」そのものの生命を生命とするからでありませう。
[#7字下げ]一一[#「一一」は中見出し]
日本人の死生観は、おそらく仏教渡来以前に、その自然観とともに既にはつきりした形を取つてゐたも
前へ
次へ
全21ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング