の災害も、殆ど常に試煉として上下心を以てのみこれに備へるにすぎず、長い歴史を通じての「復興」の努力は、それが繰り返されるたびに、一段とわれわれの抜くべからざる勇気を養つて来たかのやうに思はれます。
自然に親しむといふことも、それゆゑ、日本人にとつては、西洋人のやうに、美しい自然が自分たちのためにそこにあるといふやうな観賞のしかたでなく、自然の心を心とすることによつて、自分たちが浄化されると感じる、その同化作用にあると云へるのです。
西洋人も、自然の美を謳歌し、これに酔ふことはありますが、それは、どちらかと云へば、自然と戯れる余裕をもつたものであります。日本人の場合は、むしろ、自然をしみじみと眺めて深い溜息をもらすといふやうな気持の発露が、おほかたは自然の讃美となるのであります。
「自然」に対する心持がさうでありますから、生活そのものも、「自然」と離れては成り立ちません。「土」の無い生活は淋しく、草木の緑は、日光と同じやうに必要です。それのみならず、生活の形態もまた、「自然」に近いといふことが理想となります。
そこで、「文化」は「自然」に対して使はれる言葉だといふ西洋風の概念に少し当てはまらないことになるのですが、それよりも、日本の文化は、人工によつて自然を殺さずに、却つて自然を活かす高度の技術を生んだとも云へるのであります。
例へば、食物についてみても、純粋の日本料理と云へば、たいがいは、材料の自然な形と色と味とを保たせながら、単純な調味によつて、献立の変化をつけるといふのが、最も料理人の腕前の見せどころで、特に野生の雑草、いはゆる山菜が、高級料理としても尊ばれるといふやうなことは、外国人には見られない日本人独得の発達した味覚を証明するものであると同時に、そこにはまた、日本人の伝統的な自然観が見られるのであります。
日本人はまた、住居に於ても、なるべく自然と一体であることを望みます。白木のまゝ材木を使ふことであり、畳の触感を好むのもそこからだと云へませう。庭園の造りは云ふまでもなく自然の美を摸したもの、或は自然そのまゝの姿を採入れたものであり、しかも、その模写による「自然」の構造は、変化するものよりも変化しないものを材料とすることが、趣味、感覚の洗煉を意味することになつてゐます。草花よりも植木、それよりも更に石といふ風に。
日本人のこの自然愛は、精
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