分で認めてゐることになりはしますまいか。会つて礼を述べるだけでは、なんだか物足りないので、二十円の商品切手を添へて差出すのか、商品切手の方にお礼の意味をふくめ、それに口上を添へるのか、いづれにしても、かういふ真似は、人間の心と心との直接の交流を甚だ軽く考へたやり方で、如何に当節の日本人が、言葉と云へば紋切型をいでず、挨拶と云へば月並に堕し、真情を吐露する熱意と率直さとを失つて、遂に自他ともに、心を物に托する安易な道を択ばないわけにいかなくなつてゐるか、といふことがわかるのであります。
かういふ風に見ていきますと、日本文化の特質は、特質としての強味と魅力とを発揮してゐる面と、その特質が精神を失つて形式的なものとなり、或は、その形式が別の不純な動機によつて病弊と化してゐる面とがあり、われわれはよくこれを識別して、真の日本文化の特質を活かし、これを健全な姿に建て直すことを心掛けなければなりません。
[#7字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]
そこで、今度は、日本文化の特質として、今日われわれが深く自らを省み、また、それによつて、未来の運命を切り拓いて行かねばならぬ二つの伝統的な思想について述べませう。
それは、一つは日本人の自然観であり、もう一つは、死生観であります。
むづかしい解釈はこゝではしますまい。とにかく、自然観とは、「自然」といふものを日本人は元来どういふ風に考へてゐるかといふことであります。
一言にして云へば、われわれは、西洋人などと違ひ、自然と人間とを対立させず、人間を自然の一部と見做してゐるのであります。
従つて、われわれが自然を見る眼は、常にわれわれを生んだもの、われわれを育てるもの、そして、やがてはわれわれもその懐に帰るものといふ風に、無限の親しみと感謝とをさへ籠めた眼であります。自然を人の力によつて征服するといふやうな考へ方は、もともと日本にはなかつた考へ方で、それよりも自然の威力は、神の意志として、文字通り不可抗力と見做し、天命としてこれを受け容れるほかはありませんでした。
従つて、いはゆる天変地異も、日本人にとつては自然を畏れこそすれ、憎む理由とはならず、四季の鮮かな変化は何ものにも代へ難い自然の恩恵なのであります。
一般に穏かとは云ひ難い日本の風土の激しさは、忍耐をもつて甘んじてこれを受け容れ、自然の暴威と称せられる年々
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