ゐるのです。何処の山でとれた蕨《わらび》だとか、裏に生《な》つた柿だとか、郷里の地酒だとか、どこ名産の羊羹だとか、誰それに焼かせた壺だとか、娘の縫つたチヤンチヤンコだとか、まあさういふ類ひの品物ならば、やつても貰つても、そこには少しの無理もなく、友愛の息吹を運んで物が温く笑ひます。「手土産」の懐しさは、物の金銭的価値でないことはもちろん、それを差出す人の眼差しと一と言の説明であります。時によると、手紙をつけて使に持たせてやります。手紙は名文に越したことはありません。返礼に俳句一筆となると、それはもう凝つたものです。そんな真似まではしなくても、日本人の贈物とはさういふものだといふ、その精神をもう一度取戻したいのです。
 私の考へでは、近来、お義理だの、附け届けだのと云つて、むやみに贈答がふえ、贈答品売場などといふ大それた札まで出すところがあり、それのみならず、進物用の商品切手といふ不都合な代物まで登場したのには、ひとつの理由があると思ひます。いつたいどうしたわけかと云へば、それは、日本人のやり好き貰ひ好きにつけ込んだ営利主義の策略ではありませうが、それよりも、第一に、現代の日本人は、自分の心持を人に伝へる方法がひどく拙《まづ》くなつたといふことです。
 これは明白な事実であります。
 いはゆる物質主義の世の中になつて、品物がそれだけ幅を利かし、たいがいのことは金で自由が利くといふやうな時代の風潮とも関係はありませう。御馳走政策などといふ言葉さへあつて、盛大な宴席を設けて、饗応これつとめることなども、その部類に属しませう。しかし、私はそれだけの理由だと思ひません。そんなら、日本よりもつと物質主義の国々で、日本以上にさういふことが行はれるかと云へば、決してそんなことはないのです。
 例へばある人に就職の世話をしてもらつたとします。その礼になにを持つて行かうか、といふよりも、どの程度のものを持つて行かうかといふことが頭痛の種になる。こんなをかしな話はないので、それよりも、ほんとは、どうしたら感謝の気持が十分に伝へられるだらうかと心を砕くべきでせう。元来、そんなことに心を砕くよりも、誠意を籠めて礼を云へば、それが相手に通じる筈なのです。ところが、その「誠意を籠めて礼を云ふ」といふことに、自信がもてない、相手がそれで満足するかどうか疑はしい、と思ふのは、自分の表現力の貧しさを自
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